私の前世は飛脚ではない、と確信した運動会問題

運動会の季節がやって来た。
のかどうかは分からない。

我が家には、
運動会に関わる若者がいないからだ。
(限界集落ならぬ、限界家庭だ)


巷には「足が遅いから」という理由で、
運動会が嫌いな子がいるらしい。

また、そういう子に配慮した、
順位をつけない徒競走(皆でゴール)
も話題になっているらしい。

ちょっと意味が分からない。

私の足(の速度)は普通以下だが、
私が運動会を好きでなかった理由は、
全力疾走を強いられるから」だったし、

「速く走れるようになりたい」とは、
微塵も思ってなかったからだ。


足が速いからってだけで、
好きにはならない。

運動神経に優れ、足の速いことが、
私にはそう魅力的には映らない。

私の周囲にいた足の速い友達は、
覚えている限り二人いて、
片方は運動神経抜群の大好きな子で、
もう片方は結構嫌味な感じの子だった、
からかもしれない。

「足が速い子」=魅力的な友達
ではなかったのだ。

小学生で足の速い子はモテるらしいが、
それはきっと、
「速く走れるようになりたい!」
と願ってやまない子が、
足の速い子に憧れるだけだろう。

私個人としては、
勉強ができる子、頭の回転が速い子、
絵がうまい子、面白いキャラの子
の方が
断然魅力的だと思っていた。
(今もそうだ)


みんなが、
「徒競走で1着になりたい」
と思うとでも?

少なくとも、私は思わない。

繰り返すが、
「足が速くなりたい」と願ったことが、
一度もない(今後もない予定だ)。

そんなに早く目的地に着きたいなら、
出発の時間を早めるか、
車などの移動手段を検討するからだ。

だが、

徒競走の1着に何の価値もない、
と言っているわけではない。

私には何の価値もないことが、
他の人にとっては価値がある(逆も可)
ことは多々ある。

ただの価値観の問題だ。


徒競走の順位に
そんなに執着しなくていい。

徒競走の順位で異常に得意になる子
足が遅いことを揶揄(馬鹿に)する子は、
実は結構イタい奴だな、と思っている。

金がある、とマウントをとる奴に、
「金はあるくせに、品と知性がないな…」
と感じるのと一緒だ。

そういう子は、
成功体験と達成感の蓄積と同時に、
優越感に圧倒され、
排他的な価値観を形成してしまう
潜在的な危険性がある。

人の魅力や価値を、
一つの属性でのみ判断する
(判断されていると思い込ませる)
のは大きな間違いだ。

「徒競走は、転ばずに完走すればOK」
くらいの価値観(の子)も、
きちんと育むべきだと思う。


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