希望を掲げる社会に「救い」などない。
著名人による
「過去のいじめ体験記」
的な記事が目につく。
そうか。
夏休みが終わり、
日常に〈学校〉が戻ってくる。
それにともない、
様々な理由により
その〈日常〉に戻れない人が、
改めて絶望する時期。
それが今(8月下旬~9月上旬)なのだ。
そのため、
学生を対象にした
STOP自殺キャンペーン的なものが、
ちょうど今、開催中らしい。
そのキャンペーンに、
私も飛び入り参加してみる。
◼️救いを求める者へ
「救いはある」。
「救いがある」とは
信じていない私も、
「救いがある」とは
信じられない貴方も、
まだ実感したことがないだけで、
どこかに必ず「救いはある」。
では、
どこかにあるハズの「救い」は、
なぜ私や貴方の所へ
やって来ないのだろう。
何か、
私や貴方に足りないものが
あるのかもしれない。
私や貴方に足りないものとは
何だろう?
努力? 前向き思考??
いや、
私や貴方に足りないのは
「運」である。
救われるか、救われないかは、
完全に「運」次第だ。
「運」は、
自分ではどうにもならない。
「運」も自分次第!と謳う人もいるが、
「運」を引き寄せる努力不足を理由に、
あらゆる被害(いじめ・パワハラ)や
不幸を正当化されては堪らない。
◼️運良く救われる者へ
「いじめ体験記」的な過去を
今、語れる著名人こそ、
まさに、「運」良く救われた者だ。
彼らの言葉と生き方を参考に、
希望を持てるのであればもう大丈夫。
それが、
貴方が求めていた「救い」
に他ならない。
さて、
彼らの言葉と生き方が
何の参考にもならなかった方、
(ちなみに、私も、だ)
もう少しお付き合いいただきたい。
◼️運悪く救われなかった者へ
「運」良く救われた者のみが、
過去を語る声を持つ。
我々は声をあげる者しか
認識できない(しない)傾向にあるが、
過去を語る声を持たない
(=救われなかった)者も
黙っているだけで、
確かに存在している。
つまり、
世の中の、すべての人が、
救われるわけではないし、
救われているわけでもない。
救われることが、
デフォルトではないのだ。
◼️加害者は今でも幸せ
加害者は、
いじめやパワハラをしたことにより、
地獄で受けるような罰を体感したり、
自らの行いを悔いることは、ない。
おそらく、
いじめやパワハラをした、
という認識も皆無だ。
加害者は今も、
貴方が最後に見た時のまま、
相も変わらず生きているし、
周囲の人間や、会社は、
加害者のことを「前科認定」しながらも、
普通に、または、
ビジネスライクに接している。
薄々気付いている方もいるだろうが、
因果応報などという言葉も、
適用される人と、適用されない人がいる。
因果応報の適用も、
デフォルトではないのだ。
◼️救いは無い所には、無い
「救いがある」と思うから、
救いがない状況に
絶望することができる。
救われない現状を、
現実として受け入れよう。
「前向き」に。
過去を忘れようとも
克服しようとも、する必要はない。
どうせ、
忘れることも、
克服することも、
不可能なのだ。
発作のように訪れる
過去の記憶をなだめながら、
日常を、ただこなすのだ。
救いなど求めず、
ただ無心に。
飽きるほどに。
平穏で無の日常こそ、
救いなき者が生きられる
唯一の場所である。
◼️自殺防止とは?
私の文章のどこが
「STOP自殺だ!」
とお怒りの方へ。
自殺をする意思を挫き、
どんな状況でも、どんな形でも、
とりあえず「生きてさえいれば」よい。
それが世に云う
「自殺防止」の本質なのでは?
結婚や子作り、雇用形態など、
体制の意向に叶う分野でのみ、
「なりふり構わぬ妥協」を
⇒(異性であれば、誰とでも可)
⇒(子供の出来や育児環境などは不問)
⇒(とりあえず働け、で、納税な?)
「前向き」と捉えるお上の思考は、
何とも解せないが、
その「なりふり構わぬ前向きさ」は、
我々も見習うべきではないだろうか。
◼️希望、の前に
いじめ体験記も、世の中も、
最後は決まって「希望」を推してくるが、
「希望さえあれば、何とかなる」は
使えない感情論の中の、暴論である。
世の中に溢れる「生きる希望」とは、
抽象的過ぎて、一時しのぎが関の山だ。
今、つらい当事者が
本当に求めるものとは
「生きる希望」でも、
相談先の電話番号でもなく、
今の現状から抜け出せすための
現実的で選択可能な具体的方法であろう。
その具体的方法を示せない時点で、
希望推奨のいじめ体験記も、
希望皆無な私の文章も、
同じ穴のムジナなのである。
◼️希望の搾取
息も絶え絶えに生きる
今、つらい当事者に必要なのは、
希望などではない。
希望が持てる環境=
心身の安心・安全が
確実に保証される場所である。
安心・安全を
感知できなければ、
希望など沸くはずが、ない。
安心・安全を保証する前に、
希望をただ無心する記事や世の中の
一体、どこに、
「救いがある」というのだろう。