制服よりも、ジャージが好き。

志望校の選考条件になるほど、
制服に興味がある人がいること、
そして、その感性にも理解はできる。

だが、

私は、制服が好きではなかった。


◼️制服は不健康で不衛生

気候に合わせた調整がしにくい点で、
制服は不健康この上ない。

どんな気温だろうと
同じ服装を強要する教育機関は
狂っていると(今でも)思う。

私が在学した高校では、
ジャージ着用を禁止された授業もあり、
生徒の健康より規律を優先するのかと、
驚愕と軽蔑と殺意を覚えた。

制服の起源は、軍隊のそれらしいので、
生徒に規律を守らせる拘束具的なもの

でもあるのだろう。

また、
毎日長時間、制服を着用しているのに、
長期休暇の時期にしか
クリーニングに出せない点が不衛生だ。

シャツのように、
家庭用洗濯機で洗える仕様にすべきである。


◼️制服はルッキズムの元

同一の格好をさせることで、
各個人の容姿・体型を際立たせている。

着る服の種類により
難なくカバーできるはずの部分を、
画一的な制服のため
露出させざるを得なくなる。

本人の精神衛生上の観点からも
悪影響でしかない。

また、
制服に異常な執着や興奮を覚える
制服フェチの人間が存在する以上、
必要以上に制服を着用させるべきではない。
(登下校時はジャージで問題ないだろう)


◼️制服は格差を助長する

「服装の格差をなくす」
という制服肯定説をよく聞くが、
格差は服装のみには現れない。

本人による言語化が伴わないだけで、
格差の本質そのものは、
大多数が身をもって体感している。

にも関わらず、

その服装以外の潜在的格差を
無いものとして扱い続ければ、
社会問題を建設的に対処し改善を目指す
意識育成の貴重な機会

摘み取ることになる。

制服による「上部だけの格差隠蔽
に起因する弊害の方が、
私はより深刻な問題であると考える。


◼️勉学時は制服以外が適切

日々の服装選択の必要性や
服装に対する過剰意識により、
学業がおろそかになるのは、
ごく一部の人間に過ぎない。

すべての人間が
服飾に興味があるわけではないことは、
世の中を見渡せば一目瞭然だ。

本人の意向や
体調に見合った服装をさせることは
大変健康的である。

また、
適度にリラックスできる服装とは
勉学に集中させる環境要因の一つだ。

制服を着用することで
学習意欲が促される、

のであれば、
大学に制服がないのは、なぜだろう。

というか、
学習意欲が爆上がりする制服
があれば、
一刻も速く、全国で共有すべきだ。


◼️服装はOUT of 思考

服装で他人を値踏みする人間
の存在は否定できないが、

大半の人間は、
フィーリングで友人を選び、
(心地よい服装や環境で)
精神的に安定している人間を好む。

何なら、他人や友人が、
同じ服をローテーションで着ていても、
特段気にもならないだろう。

なぜなら、大概の思考とは、
服装以外で占められるからだ。

過去(制服着用前)を思い出すとき、

誰がどんなヤツだったとか、
誰が何を仕出かしたとか、
誰がどんなことを言っていたとか、
友人の言動は覚えているものの、
誰がどんな服装をしていたのか
など記憶しているだろうか。

我々は、
相手の顔や言動は気にするものの、
相手の服装などは
原則ほとんど気にかけていないのだ。
(少なくとも記憶に残す程には)

何なら、自分の着ていた服さえ、
記憶にないのでは?

私だけなのだろうか…。



◼️私は制服が好きではなかった

だが、
学校指定のジャージは好きだった。

高校卒業後も
ジャージだけは(ボロボロになるまで)
部屋着として着続けた。

身体を締め付け過ぎず、
身体のラインが出ないジャージは、
着ていて心身ともに安心できたのだ。

おそらく、
高校時代の大半を
ジャージで過ごせていれば、
精神的にもっと安定していたと思う。

思春期特有の過剰過ぎる劣等感も、
ジャージを着ていれば、
何とかやりすごせたかもしれない。


そんな思いからか、

卒業して何年も経つにも関わらず、
いまだに制服文化に強烈な抵抗感を持つ。

だから、

女子の制服に
スラックスの選択肢ができたように、
制服の自由化が進む世の流れを
心から歓迎している。

なぜ、男子の制服に
スカートの選択肢がないのか、
不思議(不服)ではあるが。

また、私個人としては、
【制服、ジャージ、私服】の中から、
その日の気分や体調、気候によって、
自由に選択できるようになればいい、
と強く思う。


制服の自由化を始めとして、
すべての学生が安心して学べる環境が
ますます整うよう、心の底から願っている。



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