振袖問題とは、格差以上に多様性の問題
ここ近年、
二十歳の集いの後に、
小声で語られる「振袖問題」を耳にする。
振袖を着たかったが、
家庭の経済状況に余裕がなく、
着ることができなかった。
振袖を着ていなかったため、
会場で居たたまれなかった。
友人同士の記念撮影の際、
肩身の狭い思いをした。
という、
二十歳の集いに振袖を着なかった
ことに起因する問題だ。
(以後、振袖問題と表記)
振袖問題とは、
格差問題に帰結しそうだが、
格差だけではなく、
多様性の問題にも大きく関わっている、
と私は考える。
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振袖問題の諸問題について考える。
◼️価格設定の問題
単純に、
格安の振袖プランがないのが
問題(の一つ)だろう。
だが、
和服を着る機会が非日常となり、
国内における和服市場が
縮小傾向にある、このご時世、
年に一回の貴重な稼ぎ時で、かつ、
「一生に一度の節目」と
市場を最高潮に煽れる機会に、
「リーズナブルなプランも打ち出せ」
という消費者の意向は、
和服業界側の良心に訴えるしかあるまい。
◼️資金源の問題
二十歳の集いに出席する服飾費用を、
「お祝いとして揃えてあげたい」
という親心は理解できる。
「お祝いとして揃えて欲しい」
と願う二十歳の心境も共感できる。
だが、仮にも立派な成人が、
親の資金で着飾るのが当然!
という体はいかがなものか。
そりゃ、インタビューを受けたら、
開口一番「親への感謝」を語りたくもなる。
どうしても二十歳の集いで
振袖を着たいのであれば、
事前に家庭で話し合い、
本人がバイトでもするなりして、
計画的に資金を用意する
という選択肢もあるのではないか。
大学へ行くため
ローンを組む人もいるのだ。
振袖を着るために、
ローンを組む人がいても、
何もおかしくはない。
◼️配慮の問題
「両親そろってないの?」
「恋愛しないの?」
「結婚してないの?」
「子供いないの?」
という質問が不躾なように、
「振袖じゃないの?」
という質問や感覚は、配慮に欠ける。
振袖を着たくても着られない人
のみならず、
振袖に興味がない人への
配慮が必要なのだ。
私は「振袖は別に着たくない」
という感性を持つ人間なのだが、
毎年繰り返される「振袖問題」において、
いつも蚊帳の外にいるような感覚に陥る。
すべての女性が
振袖を着たい(だろう)という前提で
話が進んでいるような気がするからだ。
その配慮が欠けていること自体に、
違和感を持つどころか、
無自覚な人(多数派)が密集するため、
非振袖の女性(少数派)の居心地が
非常に微妙になる。
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格差問題は是正できるか。
◼️格差は不可視化できない。
さて、
誰も彼も、希望する人すべてが
振袖を着られる世界になれば、
皆が幸せになれるのだろうか。
残念ながら、
格差に苦しむ人は残る。
あの子は、
あんなイイ振袖を着ているのに…。
(当事者)
他の家庭では、
あのランクの振袖を
用意してあげられるのに…。
(親族)
振袖や着付け、装飾品、その他で、
差別化を図りたい!という
「消費者の自我」と「業界の思惑」が
合致・肥大化した結果、
新たな格差が構築される。
格差とは、その気にさえなれば、
どこまでも、限りなく、果てしなく、
容易に創造が可能なのだ。
格差は是正できるが
決して消滅することはない。
不可視化も難しい。
◼️振袖問題だけ?
現実問題として、
どんなに努力しても
東大生になれない人がいるように、
どんな整形手術を受けても、
理想的で完璧な美は獲得できないように、
(ランクが高い理想の)
振袖を着られる経済状況に
今現在、自分はない、
と考え、納得する他ないだろう。
理不尽といえば理不尽だが、
その類いの理不尽は、
誰しも幼少期に経験済みであろう。
近所の同級生がしているから、
といって、
クラスメイトの大半がそうだから、
といって、
自分も無条件で、
それができるとは限らなかった、
ではないか。
それとも、
そのような経験をする人の方が、
希なのだろうか。
◼️「服装=中身」思想
二十歳の集いの振袖問題に関してのみ、
各家庭における格差を意地でも適用せず、
頑なに不当な不平等だと煽る社会に、
私は異様な違和感を感じる。
二十歳の集いの強烈な振袖思想は、
おそらく、全員が同じ格好で思春期を過ごす
制服文化に端を発している。
ちなみに、
私は制服強要文化に反対の立場である。
大人は、
思春期の子供に制服を着せることで、
着ている服で人をランク付けする感覚は、
容姿で人を判断する感覚と同じである、
という認識を育て損なったのだ。
着衣の乱れは、心の乱れ
という「服装(外見)=中身」的な
超短絡的な思考を子供に刷り込み、
同じ着衣は、平等の証
裏を返せば、
着衣のランクは、
経済(社会・人間)的ランク
とみなす不躾で下品な感覚を
無配慮に定着させてしまった。
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振袖問題の、根本的問題。
◼️二十歳の呪い
結婚式をしたくない女性や、
メイクに興味がない女性の存在を
世の中が(やっと)認識し始めた昨今、
何なら、結婚自体したくもないし、
子供も欲しくない、という存在さえいる。
振袖問題が、格差問題に特化して
取り沙汰されることに違和感を感じる。
振袖問題の、根本的な問題点とは、
振袖を着ていないだけで、
被排他的な感覚に陥ってしまう
二十歳女性(とその親族)の意識と、
その意識を醸成し助長する常識にある
と私は考えるためだ。
まるで、結婚し子供を作らない個人を、
社会的に認めない風潮が、何の抵抗もなく
全面的に受け入れられていたように。
就職=大手企業
女性=結婚→妊娠→出産→子育て
という理想を描くように、
二十歳の集い=振袖(費用は親族負担)
という理想(呪い)に囚われているだけ、
ではないだろうか。
◼️二十歳の私
私がそう思うのは、
「振袖を着るか着ないか」
という選択肢以前に、
「二十歳の集いは欠席」
という選択をしていて、
それについて
「何も思う所はない人間」
だからであろうか。
ともかく、
理想にさえ固執しなければ、
世の中には多数の選択肢が存在し、
第二希望以下の選択肢を選んだとしても
「それなりに楽しい」
ということをお伝えしたい。
そもそも、
二十歳の集いに出席するのは、
「旧友に会いたいから」
なのでは???