【友人】が欲しい、とは思わない

◼️私には友人がいない

私にもかつて、
友人と呼べる人達がいた。

学生時代を共有した同級生で、
ある程度、親しかった人達だ。

だが、もう連絡は取っていない。

ほとんどの友人の連絡先を
私自身が知らないからだ。


「友人だから」
「知り合いになったから」
という理由で連絡先を交換することを
私はいつの間にか(故意に)やめた。

次に会う機会(約束)が不明な場合、
後々その人の連絡先が必要になった、
ということが私にはなかったからだ。

もう会う機会がないであろう人の
連絡先だけが記録として手元に残り、
そのデータを消去するか否か迷う。
(大概、消去するのだが)

他の人はどうか知らないが、
その一連の決断に伴う感情が
私には負担で不快だ。


連絡先が分かる友人は数名いるが、
私からは連絡を取るつもりはない。

今の私には、
かつての友人と会う動機がないのだ。

私の番号は一度も変えていないので、
かつての友人が、
どうしても私に接触したい場合、
私に連絡を取ることはおそらく可能だ。

だが、かつての友人も、
私に会う動機はないだろう。

つまり、
私はかつての友人と会うことは、
おそらく今後一切ない。

今、私には、
友人と呼べる人は、
一人もいないのだ。


◼️かつての友人=現在の同僚

私には不労所得はないので
働かねばならず、
その働く場所(=職場)には
言葉を交わす同僚が必ず数名いる。

そもそも友人とは、
主に学校という場所で
時間を共有した相手で、
学校という特定の場所を離れれば、
友人と共有するものは思い出しかない。

今の私の決定的な何かをカタチ創った、
絶対的な思い出はないので、
私は思い出(過去)以上に、
今の生活(現在)に価値を置いている。

私にとって人間関係とは、
時間と場所を共有することによって
築いていくものであると同時に、
時間の経過と共に絶えず
変化するもの
である

だから、私の中の、
友人(過去の他者)がいたポジションには、
今、同僚(現在の他者)という存在がある。


◼️人間関係の純粋度

社会人における人間関係では、
利害関係という不純な動機が
否応なく含まれるがゆえ、

同僚(社会人時代を共有する者)は、
友人(学生時代を共有する者)より
その関係性の価値が下がる、

という一般論(的なもの)がある。


私は、そうは思わない。

仕事上の利害関係に付きまとう
打算的な感情を一切否定はしないが、

学生時代の人間関係にも、
それと同等の不純な何か
確実に存在してはいなかったか。

あいつよりも評価されたい。
こいつより先に出世したい。

社会人としての利害の根源は、
自己愛から発生する欲であろう。

あいつよりも上でありたい。
こいつよりも良い成績を修めたい。

学生時代にも自己愛(欲)はあった。

しかもそれらの欲は、
自身の精神的な未熟さゆえに、
客観視できず、なだめられない分、
制御することが非常に難しい。

自覚か記憶がないだけで、
学生時代の自己愛(欲)は、
社会人の〈それ〉よりも
もっと露骨で、品がなかったはずだ。

社会に出て、損得勘定まみれの
人間関係を築いている方は、
おそらく学生時代もそれに準ずる
人間関係を築いていたのではないか。
(と、私は想像する)

だから、
人間関係構築の時期の違いで、
同僚と友人、双方の関係性に優劣をつけ、
その純粋度を測ることに
私は何の意味も価値も感じないのだ。

社会人と学生における
人間関係の構造の違いは、

◆お互いの年齢差
=学生時代の人間関係は同年代に偏る

◆余裕(時間)の無さ
=日本の大多数の社会人には、
長期どころか日常的な休暇がない

の2点に起因するのではないか。


◼️友人(過去)に会いたくない

学生時代は楽しいこともあったが、
私にとっては
人生で最も苦しい時期でもあった。

友人を含む、
学生時代の環境のせいではない。

向上心と目標を持ち、
未来を夢見ることを
強要される年齢
だったからだ。

向上心や目標、将来の夢どころか、
今も昔も、欲しいものや、
やりたいこともない私にとっては、

致命傷にならないボディブローを
毎日毎日、無限に食らい続ける、

本当に地獄のような時期だった。

その苦しい記憶に付随するものは、
友人を含め、
可能な限り距離を置きたいのだ。


また、

自慢ではないが、
私は他人に誇れる人生を送っていない。

犯罪を犯さない。
他人には(可能な限り)親切に。
親が存命中は自死しない。

上記3点をクリアしていれば良し
とする我が人生である。

「今、何してるの?」という
己の現在を語る枕詞として、
まず相手(私)の近況を問う社交辞令
返す言葉(人生)が私にはない。


◼️同僚や顔見知りがいればいい

一般的な人から見れば、
私はとても寂しい人生を
送っているのだろう。

だが、

スタートラインも、
幸せの方向性も、
全部同じ

と刷り込まれた
かつて未成年同士だった友人よりも、

経済的立場や環境による不平等を
暗黙のうちに了解している

(=プライベートには容易に踏み込まない)
成人同士の同僚の方が、
私にとっては、はるかに付き合いやすい。


◼️適度な距離は譲れない

自分以外の他者と、
何かを分かち合いたい。

と願う気持ちは私にもある。

だが、
誰かと共有するものは
さほど多くなくても
私は十分満ち足りる
し、

その「誰か」は特定の他者でなく、
不特定な他者でも構わない。

むしろ、
特定の他者と共有するものが
不特定他者と比べて極端に多いと
息が詰まりそうになる。

よって、私は結婚生活には不向きだ。

誰かと結婚して、
共同生活を送った経験はないが、
その〈不向き具合〉の確信は持てる。


◼️友人という呪縛からの解放

学生時代は、
学校という場所で過ごす時間が
圧倒的に多い。

そこは、
人間関係を築く手段が
仲良くすること」のみとされ、
不平等の徹底的な隠蔽」が善とされる、
特殊で隔離された、異質な空間だ。

その偏った空気に
どっぷり浸かっていると気付けないが、

本来の人間関係とは、
相互コミュニケーションにより、
適切な距離感を把握することから始まる。

何も、常に好意的な共感を示し、
常に行動を共にすることではないのだ。


私は社会人になって、
そう考えるようになったため、
今、友人が一人もいなくても、
寂しさを全く感じなくなった。

私と、私の同僚や顔見知り(=友人未満)、
その関係性のグラデーションのどこか
対立しない他者がいれば、

ゆる~い関係性で結ばれた他者がいれば、
今の私には十分なのである。


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