【仕事が生き甲斐?】仕事が生存に直結する社会は、上品に野蛮
本日もお仕事、お疲れ様です。
唐突で恐縮ですが、
働くこと、お好きですか?
♪毎日、毎日、ぼくらは鉄板の、
上で焼かれて、イヤになっちゃうよ♪
この歌を聴いて、
繰り返す日々への懊悩
ではなく、
連日、社会から必要とされる快感
(俺がいなかったら仕事が回らないし~)
を得られる人は、働くことがそこまで嫌いではないのかもしれない。
働くという行為は、「己の存在意義を誇示し、自己肯定感を上げる」手段としては最適であるし、まして、「働く」ことに何の疑問も持たずにいられるなら、この世は天国、パラダイス(磨耗、身も、粉々になって、飛んでゆけ)、だ。
仕事が生き甲斐?
ある仕事が「生き甲斐」ならば、報酬が低くても、生活が成り立つ限り続けるはずである。何とか生活はできるが、報酬が低すぎて職を変えるのであれば、それは、その仕事が「お金になるから好き」な程度である。
生き甲斐という表現は不適切だ。
「金になる仕事が生き甲斐です」の、「金になる」部分を省略すべきではない。
というのは、お金や贅沢を好むことは、決して下品な嗜好ではないからだ。「仕事というか、稼ぐことが生き甲斐ですね」と堂々と表明することに後ろめたさを感じる風潮が、むしろ不健全だ。
我々が、お金や贅沢を好むことに好感が持てない理由は、経済的に成功した人に良い印象を持っていないからだ。経済的な成功と、人間性や品格などは相容れないものだろうか。これから成功する方には是非、その検証と、成功者のイメージ回復に努めていただきたい。
さて、本題に戻ろう。
その仕事は、生き甲斐ですか?
どこかの中心で、
ワークライフバランスを叫ぶ
「どこか」=不特定な場所に、
「中心」は存在するのか、
という疑問は持たない(叫ぶといえば、中心の)ある特定世代の方々をはじめ、今ほとんど皆がワークとライフのバランスを取ろうとしている。
ワーク>ライフ な現状から、
ワーク≦ライフ を目指す。
仕事が「生き甲斐」の方々にとっては、由々しき事態なのかもしれない。
仕事=アイデンティティであれば、仕事の価値観の揺らぎが、己の存在意義に直結し、自我の危機に晒される。まさに「誰か助けてください!」状態だ。
だが、そもそも、人生における仕事のウエイトは減らす方向へとシフトすべきなのだ。
人類が進化の過程で、加熱・調理した食物摂取により、栄養補給(食事)が最優先の生活様式からシフトしたように。
成熟の条件
栄養摂取が目的の食事が、現代では「美食」的側面が強くなり、生存から遠ざかった。それは、食べるものに困らない社会の豊かさと成熟の証である。
食事が生存に直結する(食糧難に直面する)社会は、間違いなく貧しい。
では、
仕事が生存に直結する社会はどうか。
おそらく貧しい。
仕事がない人間が生存の危機に陥る社会では、転職は命がけで、解雇は死刑勧告に等しい。ニートな日々はスリリングだ。
そんな社会は貧しいというか、野蛮だ。
仕事が生存から遠ざかり、仕事に依存しない社会や人生が成り立つ成熟した環境においてこそ、「仕事が生き甲斐です」と言い切ることが可能になる。
「誰か」助けてあげてください!
環境の変化に伴い、仕事が「生き甲斐」の方々が陥る、自我の危機の原因は、【仕事=アイデンティティの全て】とする自己認識にある。
仕事を失っただけで、生存が危ぶまれる社会に問題があるように、仕事がなくなっただけで、崩壊するような自我はヤバい。
仕事に全身全霊を捧げた結果、離職後や定年後、生きる目的を失い、脱け殻になる人間に、私は羨望の眼差しを向けない。
仕事は、
アイデンティティの一部でしかない。
健全なアイデンティティは複数の要素で構成される。アイデンティティに限らず、単一の要素で構成されるものは、例外なく脆弱で不完全だ。その純粋性や儚さに対する憧れは理解できるが、自己や人生を犠牲にしてまで求めるものでない。
にも関わらず、【仕事=アイデンティティの全て】とすることを社会は求め、我々もそれを美徳として肯定する。
仕事が生存に直結する
野蛮な社会に適応して、
清く正しく美しく
生きる人がいる。
「誰か」助けて(あげて)ください!