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3分間のintroduction 【短編小説】

港区浜松町に競うように建ち並ぶ高層ビル。その内の1つのオフィスに勤務する新入社員畑中健太には、密かな朝の楽しみがあった。

高層階へ行くエレベーターを待つ間と、エレベーターが42階に着くまでのたったの3分間だけ、同期入社の宮川優華と話が出来る。

同じフロアで仕事をしてはいるが、優華は経理部で、健太は人財管理部。目に入るのに話すことは出来ない、近いようで遠い、そんな微妙な距離感だ。

優華は飛び抜けて美人と言うまでのルックスでは無いが、天真爛漫でよく笑い、誰に対しても分け隔て無く明るく接する、人懐っこい性格の持ち主で、その愛嬌のある笑顔は、多くの男性社員に好感を持たれていた。

対して健太の方は、業務的なコミュニケーションこそ無難にこなせるが、それ以外となるとてんでダメだった。特に女子だ。思春期をそのまま引きずって成人してしまい、23歳の現在に至っても、女性に自分から話し掛けることはほとんど出来ない。過剰なまでに奥手なヘタレ男子だった。

そんな健太が相手でも、優華はいつだって笑顔で挨拶をしてくれる。

2ヶ月前の新入社員研修初日、その時も声を掛けたのは、やはり優華の方からだった。
「畑中君、A大学なんでしょ?すごいよね。ディスカッションもめっちゃ発言してたし」
突然声を掛けられ言葉に詰まった健太は、取り繕うように笑顔とサムズアップを返した。

健太は女性が苦手なだけで、決してしゃべり下手なわけではなかった。捻くれた性格が奏功し、他者と違った目線で物事を見る力が養われていた。だからディベートは得意だったし、研修の時のディスカッションでも進行役の先輩に「君の視点は面白いな」と褒められた。当然のように他の同期からも注目を集めた。

しかしながら、健太にとってそれとこれとは別の話。テーマも何も無い状況で突然女性から話し掛けられても、全く以って何を話せば良いのかわからない。その結果が急場凌ぎの笑顔とサムズアップだったわけだ。会話らしい会話には発展しないまま、2人は研修に戻ったのだった。

それでも優華は朝のエレベーターで一緒になると、「おはよう」と挨拶をしてくれて、話し掛けてくれた。健太も元々無口なわけでは無かったから、だんだんと、その限られた3分程度なら話が持つようになって行った。

ある日の朝、駅を出てビルに向かう途中の信号待ちで、優華と健太は一緒になった。その時健太はスマートフォンにBluetoothのイヤフォンを繋ぎ、学生の頃から好きだったRadioheadを聴いていたから、優華が側にいることにも気づいていなかった。
「畑中君!もしかして今聴いてたのRadioheadじゃない?」
前触れも無く声を掛けられた健太は、多くの人が信号待ちをする中で「わぁっ」と声を出して驚き、仰け反って転んだ。
「あ、ごめん!おはよう」
優華は驚いて転んだ健太にまた驚き、慌てて挨拶をした。
「びっくりしたよ。…それより宮川さん、Radiohead知ってるの?」
「うん、大好き。畑中君だって思って近づいたら『creep』のサビのギターリフが聴こえて来たから、アタシちょっと興奮しちゃって」
『creep』は静けさの中にエモーショナルなギターが利いた、Radioheadの初期の代表曲。特にサビ前のギターリフは、シンプルだけど絶大なインパクトがある。
「へぇ、女の子でRadiohead知ってる人、初めて会ったよ」
そもそも女子のことなどほとんど知らないが。
「実際全然いないよ、知ってる子。『音楽好き』って言う娘だってさ、洋楽って言った途端に7割が引いて、ロックってワードが出たらもうほとんど全滅だもん」
「まぁ、男もそれほど変わらないかな」
「アタシはお兄ちゃんがいて、お兄ちゃんがいっつも部屋で洋楽ロックばかりかけてたから、その影響なんだ。それでね、好きになるきっかけが『creep』だったの。だから、興奮しちゃったんだ」

その日以来、2人の会話のほとんどは音楽の話になった。邦楽の話もたまにはするが、その多くは洋楽。特にUKロックの話が中心だった。“テーマ”を得た健太はそれまでが嘘のように饒舌になり、エレベーターが42階に辿り着くまでの時間では足りないと思うようになっていた。

優華はoasisやsuède、Ashなどが好きで、健太もそれらのバンドは好きだった。そして、自分の好きなバンドとしてThe Jesus and Merry ChainやThe Smashing Pumpkinsを教えた。「今度聴いてみる」と言った翌日には「昨日教えてもらったの、YouTubeで聴いたよ」と嬉しそうに感想を話してくれた。

毎日たったの3分間だけど、こんなに幸せな時間が存在することを健太は初めて知った。心も体も、自分の全てが喜んでいる。毎朝出社することが楽しみになり、休日も優華のことばかり考えるようになっていた。優華の笑顔のことが頭から離れない。健太にとって、それは初めての片想いであり、初恋でもあった。

しばらくの間は、幸せな朝が続いていた。

「宮川、企画部の大沢さんと付き合ってるらしいぜ」
そんな話を耳にしたのは、それから1ヶ月が過ぎた頃だった。同じく同期の木村が何処かで伝え聞いたらしい。
「近くのホテルに2人でいるの、何回も目撃されてるんだってよ。大沢さん、仕事出来るしイケメンだから、モテるって話だもんな」

大沢は入社2年目にしてプロジェクトリーダーを任される、企画部のエースだった。ルックスも良く、常に女性を意識して身だしなみを整えており、健太自身から見ても、男としての格が全く違う相手なのだ。だから、もし大沢から声を掛けられたのなら、優華が受け入れるのも無理はないと思った。

その日の業務中、健太は優華と大沢が談笑しているのを目撃した。いつも笑っている優華なのに、その笑顔が特別な意味を持つように思えて、健太の心は締め付けられるようだった。悲しみであり、やり場のない怒りであり、コントロールが利かない感情。

帰宅してからも、しばらくボーッとしながら考えていたけれど、最終的に健太の出した答えは「諦める」だった。

端(はな)から勝ち目の無い戦いだ。自分は優華を想っているが、優華の笑顔は自分だけに向けられているものではないし、優華にとって自分は特別な存在じゃない。今まで通りに戻るだけじゃないか。そう自分に言い聞かせ、嘘をついて心の折り合いをつけようとした。

健太が捻くれ者で奥手な性格になったのは、それなりに理由があった。

何をやってもそつなくこなし、中高一貫の進学校でも無難な成績を残して、大学は都内でも一流の一つに数えられるA大学に入った。そしてそのまま現在の職場、浜松町の高層ビル、その42階にオフィスを構える上場企業に就職し、入社して間もなく上々の評価を得ている。はたから見れば(童貞であることだけを除けば)羨ましい限りの順風満帆っぷりである。

しかしそれは他者にとってそう見えるだけで、健太はずっと悩みの中で生きて来た。

畑中家は父が開業医であり、兄も後継ぎとして当たり前のように医者になった。そんなエリート家庭における健太の立ち位置は、常にパッとしない次男でしか無かった。それは学生の頃から変わらず、成績優秀な兄と、何もかもそこそこな弟。表立って口には出さないし、父や兄との関係性も悪くなかったが、言われなくても自ずから比較してしまい、家庭内劣等生というポジションから逃れることは出来なかった。そんな学生生活を経て自分に自信を持つことは出来ず、自己肯定感は低め安定。平凡なルックスにもコンプレックスを持ち、イマイチ弾けることが出来ないまま、今を迎えている。 

ベッドに座り、ふぅっと大きく溜め息ついた。その溜め息には、優華への想いが込められていた。

翌日から、健太は家を出る時間を10分早めることにした。

困惑したのは優華だった。健太がそうであるように、優華にとっても朝の3分間は、毎日の楽しみになっていたのだ。

それなのに、健太がいない。昨日教えてもらったThe Libertinesを早速聴いた感想を話したかったのに、いつもの時間に健太は現れなかった。電車の遅延か何かで少し遅れているのかもしれないと思い、少しだけ待ってみたがやはり健太は来ない。仕方なくエレベーターに乗り、42階まで上がってフロアに入ると、既に自席に着いている健太がいた。

どうしてだろうと思ったが、きっと何か事情があってのことだと考えることにした。もしかしたら早めに済ませたい仕事があったのかも知れない。しかし、翌日も、その翌日も、いつもの時間に健太は来なかった。その週は結局一度も朝の3分間を一緒に過ごすことは無かった。せっかく自然な自分で楽しくいられる時間が出来たのに。優華もやはり、もっと健太と話したいと思っていたのだ。

笑顔が魅力の優華だが、その笑顔の裏には、誰にも話すことの無い過去があった。

宮川家は母子家庭だ。母と3歳上の兄、そして優華の3人家族。兄は家を出て一人暮らしをしているから、優華は母と2人で、それほど広くないマンションで生活している。

優華が4歳の頃までは、父も一緒に住んでいた。だけど、それは記憶の奥底にしまっておきたい、出来ることなら忘れてしまいたい過去。

父は外面の良い、典型的な内弁慶だった。普通に出勤して、普通に仕事をして、ご近所さんにも挨拶をする。だから、周りの人には父の異常性はあまり知られていなかった。実際は短気で気性が荒く、アルコールが入ると当たり前のように物を投げ、暴力を振るう。その主な対象は母であり、兄だった。優華はその光景を見ると、怖くて怖くて仕方がないから、暴力から逃れる為に、自然とニコニコするようになった。優華に出来る唯一の自己防衛策が、笑顔だったのだ。優華も睨まれたり怒鳴られたりすることもあったが、幼いなりに必死の思いで偽りの笑顔を作り続けた。

良い時の父も知っている母だったから、粘り強く父に変化を求めた。だが、ある日兄が骨折するほどの暴力を父は振るった。いつまでも変わらない状況に、さすがの母も耐えかねて警察に相談した結果、父は逮捕され、そして離婚するに至ったのだった。

夫が逮捕され、離婚をしても前向きに子供に接する母と、母が仕事に出ていても、いつも一緒に遊んでくれる兄が、優華にとっては救いだった。母は2人を保育園に預け、アルバイトを掛け持ちして働いた。それでも休みの日は家族で遊びに連れて行ってくれる、優しく強い母だ。兄も小学生になって同級生と遊ぶ時も、必ず優華を一緒に連れて行った。そんな兄を揶揄する同級生もいたけれど、自由に遊びたい気持ちより、家族を優先してくれた。父の記憶が消えることは無いし、心に負った傷が完全に癒えたわけではなかったが、優華の笑顔は、次第に自分を守る為のものから、心から楽しさや嬉しさを表現するものに変わって行ったのだった。

優華は人の痛みを知り、相手を差別せずに笑顔で接する優しい女性に育った。その笑顔に惹かれる男子は多く、何人かから告白も受けたが、恋愛となると過去の経験から警戒心が芽生えてしまい、優華もまた健太と同じように、一歩踏み出す勇気を持つことが出来なかった。

2か月前、新入社員研修の日。優華から声を掛けたのに対して、健太は言葉を発することなく、笑顔とサムズアップを返した。

優華はその瞬間、健太に対して自分と似たような何かを感じ、心の陰に触れた気がした。痛くて切なくて、優しくて安心する陰。その陰にもっと触れたいという想いから、出勤時間を健太に合わせるようになったのだった。

互いに2日間の休日が、酷く長く感じられた。

仕事中は仕事に意識を向けられるから、まだマシだった。ここしばらくの休日は、休み明けに何を話すかを考え、その笑顔や反応を想像するだけで幸せだった。なのに、この2日間は、考えれば考えるほど辛くて苦しくて、考えないようにしても、互いのことばかり考えてしまう。

原因となったのは、優華と企画部の大沢の関係だった。確かに優華は大沢から誘われたし、好意を持たれていた。優華も誘われること自体は、決して嫌ではなかった。だが、健太が2人の噂を聞いたあの日の夜、優華は大沢から告白を受け、それを断ったのだ。

優華は大沢に恋人がいることも、他の女子社員を誘っていることも知っていた。幾ら格好良くて仕事が出来たって、そんな相手と一緒にいたら、また嘘の笑顔を作らなければいけなくなるかも知れない。付き合う前から不安を抱くような相手との恋愛なんて、考える余地も無かった。「君と付き合ったら、もう他の誰とも会わないよ」なんて軽々な言葉を受け入れるほど、優華は無防備に生きては来れなかった。その日初めて、自分が一緒にいたいのは健太なのだと、ハッキリと気づかされた。一緒に過ごす3分間が、どれほど自分にとって尊い時間で、どれほど幸せな時間だったかに気づいたのだ。それなのに、翌日からは会うことも話すことも出来なくなってしまった。

健太は噂に惑わされ、現実から逃げてしまったし、優華は何故そうなっているのかもわからない。ボタンの掛け違いによって生じた距離は、やはり近いようで、あまりにも遠く感じられた。物理的な距離とは、まるで比較にならないくらいに。

「わりぃ、こないだの情報、誤報だったっぽい」
月曜日の朝、声を掛けて来たのは木村だった。情報量に乏しい言葉に、健太は一瞬何を言ってるのか理解出来なかった。
「宮川、大沢さんと付き合ってるんじゃないらしいわ」
「えっ」
「企画部の同期で有川っているだろ。あいつも『アタシも誘われたよ』って言ってて、有川が言うには大沢さん、好みのタイプだと見境無く行くんだって。防御力低い女はそれ知ってても受け入れちゃうらしい」
「宮川さんも?」
特別な想いが伝わらないように意識しながら、健太は言葉を発した。
「宮川ちゃん、人懐っこいようで恋愛下手だからなぁ〜…って有川が言ってた。直接聞いてないからわからないけど、たぶん宮川は無事だと思う」
「そっか」
そう言って、健太は木村にバレないように下を向き、息を吐き出した。安心すると同時に、自分の行動の愚かさに呆れた。勝手に思い込んで、大切な時間を放棄した。優華が大沢さんと何も無かったとしても、その事実は変わることがない。自分に対して不信感や嫌悪感を抱いているだろうと考えると、やり切れなさが込み上げ、もう一度、大きく息を吐き出した。
「なぁ、今度一回同期で飲み行かないか?俺、幹事やるからさ。ウチの会社、飲みニケーション推進してるから、飲み代に補助金出してくれるし」
「あぁそれ良いな。俺も行くよ」
嬉しいような不安なような、複雑な感情。それでも、もしかしたら優華と話すタイミングを得て、謝ることが出来るかも知れない。
「よし、じゃあ今週の金曜日な。畑中もそろそろチェリー卒業しないとだもんな。こーいーしちゃったんだ♪っつってさ」
「うっせぇわ!」
健太はツッコミを入れながらも、木村の空気の読めなさに、今度ばかりは救われた気分だった。

急にまた出勤時間を合わせるのも変だし、会っても何を話せば良いのかもわからない。いろいろなことを考えてしまい、行動出来ず、結局そのまま金曜日を迎えた。

金曜日の業務終了後、ビルの地下街にある居酒屋に同期8名で集まった。同期とは言え、それぞれ部署が違うから、普段はなかなか顔を合わすことも無い。それでもやはり、同期という繋がりは強いものだ。木村の音頭で乾杯をしてお酒が入るにつれ、男性陣は各々の抱えている愚痴や不平不満、女性陣はそれに加えて誰が格好良いとか、恋愛の話で盛り上がっていった。健太もお酒の力を借りて、正面の席に着いた女子社員の伊藤紗耶と話すことは出来た。しかし運の無いことに、優華とは対角線の端と端の席になってしまい、全く話すことが出来なかった。何度か目が合ったような気はしたが、気がしただけで、結局何も出来ず終いだ。焦りは募るが行動が伴わない。声を掛けに行くことすら出来ない。優華を意識するほどに臆病風に吹かれ、ゆらゆらと揺らいでしまう自分が情けなくて仕方がなかった。

「カラオケ行こうぜー」
盛り上がった勢いに乗じて、木村が言った。木村のお目当ては伊藤紗耶のようで、カラオケで連絡先の交換まで持ち込むのだと息巻いている。そういう木村を羨みながら、自分も何とかしようと健太は考えていた。
「動かなきゃ、何も変わらないからな」
木村が言った。自分にそう言い聞かせたのだろうが、健太は自分が言われたような気がして「そうだよな」と呟いた。すると、木村は健太の肩をポンポンと叩き、「お互い頑張ろうや」と言った。もしかしたら深い意味は無いのかも知れないが、健太には木村が全て気づいていて、お膳立てをしてくれているように思えて来た。そんなことを考えている内に、健太の中で覚悟が少しずつ固まって行った。

カラオケに入り、真っ先にマイクを持った木村が歌ったのは、尾崎豊の『I Love you』だった。あまりにストレートでわざとらしいメッセージに、お目当ての紗耶も笑ってしまっていたし、皆んなからツッコミが入り、場が和んだ。それからしばらくはそれぞれ盛り上がりそうな持ち歌を歌い、健太も皆んなが知っていそうな曲を歌った。

健太はカラオケは好きだった。学生時代、女子がその場にいても、必要以上にコミュニケーションをとる必要が無かったからだ。何より歌が上手かった。普段ほとんど話すことの無い女子からも、「畑中君って歌めっちゃ上手いね」と声を掛けてもらえるから、その時だけは悦に浸ることも出来る。そこから後には繋げられずに来てしまったが。

その頃から、洋楽の中でも誰でも知っているという理由で、よく歌っていた曲があった。
Ben E.Kingの『Stand by Me』だ。映画も好きだったが、健太が好きなのはジョン・レノンがカバーしたバージョン。パワフルで情熱的なジョンの歌唱が心に刺さる。

優華に想いを届けるのに、健太はその曲を選んだ。Stand by Me(そばにいてほしい)。互いの趣味であり、2人を繋ぐ唯一の物が音楽だった。だから健太は、自分の想いを音楽に託すことにした。

皆んなの前で、マイクで告白するなんてことは、自分にはとてもじゃないけど出来ない。木村のように、ノリで伝えるようなアグレッシブさも持ち合わせてはいない。健太はただただ全力で歌った。優華1人に向けて、想いを込めて。

サビは皆んなも歌って、歌い終わると拍手が部屋に鳴り響いた。優華もいつも通りの笑顔で拍手をしてくれていた。その笑顔がどういう意味なのか、自分の想いが届いているのか、健太にはわからなかった。でも、これだけ誰かを想って歌を歌ったのは初めてだったから、後はもう信じるしか無かった。

「最後の一曲、畑中歌ってよ」
木村にそう言われ、健太が歌ったのはoasisの『Stand by Me』。同じタイトルでも、Ben E.Kingのそれとは毛色が違う。優華もoasisが好きだったから、最後に選んだ。

カラオケを出て、駅で解散した。優華と健太は路線も違い、別方向に帰る。別れ際「じゃあなっ」と皆んなに手を振った時、優華が笑顔で手を振り返してくれた気がした。ひと言も話せずに終わってしまったけれど、健太は一歩、前進したと感じていた。それが思い過ごしで無いようにと、心の内で、神に祈った。

今度の2日間もまた、長く感じられた。覚悟を決めたとは言え、何もしていない時間があると、どうしてもネガティブな想像もしてしまう。早く優華に会いたかった。会って話がしたかった。前と同じように、あの笑顔が見たい。スマートフォンをBluetoothでスピーカーに繋ぎ、お気に入りのプレイリストを部屋に流しながら、落ち着かない思考に身を委ねた。その中には、ジョン・レノンの『Stand by Me』『Love』『Power to the People』なんかも入っていて、そのどれもが強く、優しく、健太の心に染み渡って行った。

月曜日の朝、健太は出勤を以前の時間に戻して家を出た。昨夜は子供の頃の遠足前日のように、そわそわして熟睡出来なかった。それでもいつも通りにスマートフォンのアラームで目覚めた。それから身支度を整え、家を出て、音楽を聴きながら通勤電車に揺られた。

優華に会える保証は無かった。優華がどう思っているかもわからなかった。それでもその時にはもう、健太の心の揺らぎはすっかり収まっていた。

駅を出て、オフィスのあるビルに向かって歩いていると、信号を待つ人混みの中に、優華の姿があった。

優華に気がついた健太は、歩速を速めた。

しかし、同時に信号が青に変わり、優華も歩き始めてしまった。

少しでも早く話したいと思い、走ろうとするが、人並みに邪魔をされ、思うように進むことが出来ない。

近いようで遠い、届きそうで届かない距離。

今までなら諦めていたであろうその距離を、今回だけは諦めたくなかった。

信号を渡り切った辺りで、優華のところまで辿り着いた。
「宮川さんっ」
健太が声を掛けた。声に気づいた優華は、驚いた顔をして振り向く。そして、2人の目が合った。
「あ…、あの…、俺、ごめん」
目が合った途端、話そうと思っていた言葉が、全て何処かへ吹き飛んでしまった。
「うん」
そんな健太に対して、優華はただ笑顔で頷いた。
「畑中君、リバティーンズ、めっちゃ良かった」
優華が言った。ずっとそれが言いたくて、仕方がなかったのだ。
「えっ」
健太の方は、優華が何を言っているのか、すぐに飲み込むことが出来なかった。短期間の間にいろいろ考え過ぎて、自分が教えたことを忘れてしまっていた。
「この間教えてもらってからハマっちゃって、アルバムも出てるやつ、もう全部聴いたよ」
困惑気味の健太をあえて気にせず、優華は続けた。
「あぁっ、本当に!?今度、来日するんだよ。サマソニに出るんだ」
ようやく話を理解した健太が興奮気味に言った。
「あのさ、アタシね、フェスって行ったこと無くて…、畑中君、一緒に行かない?アタシ、リバティーンズ、生で観たい」
エレベーターの前で、健太の思考はまたフリーズした。“一緒に”という言葉を、そのまま受け止めて良いのかどうか、躊躇した。
「アタシと一緒にサマソニ行ってくれない?」
あまりの反応の鈍さに、優華は遠回しに伝えることを諦め、率直に言葉にした。さすがの健太も、その言葉は理解出来た。
「本当に…、俺で良いの?」
健太が言った。
「アタシはね、畑中君が良いんだよ」
優華が言った。

到着したエレベーターに2人は乗り込んだ。

制限人数ギリギリのエレベーターの中で、優華は健太の手を握った。加速する自分の鼓動を感じながら、健太も優華の手を握り返した。

そして毎朝の幸せな3分間はすっかり元に戻った。その距離は、以前よりも近くなって。


2人の物語は、これが始まり。


おしまい

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