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親知らずを抜いたら血まみれになって気絶した話
大学生という身分を失う10日前のこと。僕は大学生のうちにすべきことを考えていた。そんなことは大学1年生のときから綿密に考えるべきというのはよく分かっていたが、人は期日に差し迫ったときにようやく本気になれるというものである。
旅に出たい。積読になっている本を読みたい。長年、定期的に悩まされて続けた親知らずを抜きたい……
いや、抜かねばならぬのだ。旅に出ることも本を読むことも、それはwant toであるが、親知らずに関してはmustである。
思えば小学6年生頃から半年に一回ほどの頻度で奥歯をジリジリと強く押し出される激しい痛みを覚えてきた。
股間に男性器がついていることになんら疑問も抵抗も感じないのと同じように、「我が人生、親知らずと共にあり」と思っていた。何より僕自身、その痛みが消えると親知らずの存在をまるで忘れてしまう阿保であるため、これまで親知らずを抜こうなんて思ったことがなかったのだ。
が、親知らずが再び牙を剥いたのである。親知らずに泣かされることはもうごめんだ。子が親から自立するように、僕も親知らずから自立しなければなるまい。
思い立ったら吉日。そんな言葉に踊らされて家から一番近くにある(自転車で3分の)歯医者に赴いた。虫歯も10年以上なってないし、歯の定期検診も行ったことがなかったので、かかりつけでもなんでもない。一番近くのコンビニがセブンだったから入ってみた的なノリである。
はるか昔、小学生の頃に来た以来であるため、実家の棚の奥底から取り出した診察券のデザインはかなり古かったらしく、受付で新調してもらったほどである。
受付に親知らずを抜きたい旨を伝えて席に座り、数十分後には診察が始まった。親知らずがどのようにして生えてきているのか、レントゲンを撮る。
しばらくしてレントゲン写真を見せられる。異常なまでに横向きの親知らずが右の下の奥に佇む。明らかな捻くれ者である。性格のどこかに難がなければできないだろ、と思う他がないくらいに曲がっている。曲がるならピサの斜塔くらいゆるやかな感じがよかったものだ。
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「あーやっぱり曲がってますねえ」
先生がそうおっしゃる。もちろん曲がっているのは僕の性格ではなく、親知らずのことだ。
「どうする?今日(親知らず)抜いてっちゃう?」
まるで美容師が今日パーマかけてっちゃう?と言うくらいの軽いノリで医者は言った。
「できるならぜひお願いしたいです」
抜くなら早いに越したことはない。僕がそうお願いすると、すぐに処置が始まった。
医者は麻酔的なやつを僕の口に入れ、ギュイーーーーンと何かの機械で親知らずを手際よく抜いていく(視界は遮られるように施されたので見えませんでした)。軽いノリをするくらいの技術力があるということだろう。先生に身を委ね、まあ何とかなるだろうと考えていた。
あと考えていることといえば唾液のことくらいである。唾液が焼肉を焼いているときくらい過剰に分泌されるので、助師が持つホースのようなものに唾液をこれでもかと吸われる。ちょっと恥ずかしいなぁと、まあそんな感じで気づいたら施術は終わっていた。
「はい終わったよ〜針一本縫っといたからね」
施術はもの数分で終わってしまった。こんな一瞬で終わるならもっと早く抜いておけばよかった。
「じゃあこのガーゼを噛んで止血してね」
僕は助師に手渡されたガーゼを噛み締める。15分くらい待合室で噛んだ後、もう帰ってもいいよと受付に言われたのでお会計を済ませて僕は家に戻った。1時間ほど安静に過ごしたあと、18:30から塾講師のバイトに向かった。
右奥の親知らずがまるっきりいなくなってしまったので違和感が半端ない。リビングにあった大型家具がなくなったときのような広い空間に歓喜しながらも、どことなく変な感じがするのだ。
個別指導塾の講師として教えるという業務をいつも通り進めていたのだが、1時間ほど授業を進めてから異変が起きた。右の奥歯からジュワジュワと血液がマグマの如く流れ出てくるのだ。
口から血が溢れるなんて初めてのことだった。まあでも親知らずを抜くとはこんなものなのだろうか。鉄分がもったいないし飲み込んでみる。口の中は常に血の味がした。世の血好きといえばドラキュラと蚊であるが、彼らが本当に好き好んで血液を欲しているなら、本気で引く不快な味である。
生徒に、「親知らずを抜いたら血が止まらなくて飲み続けている」的なことを面白おかしく報告すると、「先生、それ血液が胃の中で固まっちゃうから危なくないですか?」と言われ、確かにそうかもしれないと我に帰る。が、洗面所に吐き出すわけにもいかないので、定期的にトイレに行って口から溢れ出る血液を吐き出した。
いずれ止まるだろう。そんな安易な気持ちで狂ったようにトイレを往復していたが、なんだかトイレへ行くこともしんどくなり、最終的には口に血液をパンパンに含ませ、殆ど筆談で授業をする始末。
なんとか2コマの授業を終え、家に帰ると時刻は21時を回っていた。相変わらず血は止まらない。
鏡を見ると吸血鬼みたいに口から血が垂れていて少し笑ってしまったが、さすがに焦ってくる。
そんな僕に異変を感じた母が今すぐ病院に行かなきゃといって車を回してくれた。手に持ったビニール袋に血液を吐きながら車に揺られ、救急病院へ行くもその日の口腔外科は閉まっていた。一番近くで車を飛ばして40分以上はかかる大学病院しか空いていないと伝えられ、一度家に戻る。
今度は父がその大学病院まで猛スピードで車を出してくれた。その間も僕はビニールに血を吐き続けた。父の運転技術のおかげもあって30分足らずで病院に着き、手続きをした後、静まり返った待合室で父と2人並んで座って待った。
が、待っても待っても一向に順番が回って来ない。無印良品週間のレジ、いや、真昼間のスプラッシュマウンテンの列に並んでいるのかと錯覚するくらいに長い。最初はスマホをいじる余力もあったが、もはやスマホを持つことすら辛くなってくる。
もうここまでくると血を吐く度に自分のHPが減っていることがよく分かってくるし、ポケモンでいうともうその体力ゲージは赤く、いつ瀕死になってもおかしくない状況である。
病院で受付を済ませてから1時間半がたった頃であろうか、その間に何をしていたのかすら覚えていないが、はっきりと覚えているのは、いきなり呼吸が荒くなり、椅子から崩れ落ちるように身体からフッと力が抜け、視界に白い霧のようなものがかかってくることだ。
父が何かを叫ぶ声が聞こえて、医者が持ってきた担架に乗せられる。医者遅えよ。でも僕の体重は軽いから担架に乗せやすくてよかったね!と、思ったところで意識がなくなった。
気づくと淡い光に照らされて、ブルーの防護服のようなものを着、東京03の角田みたいなメガネをかけているおじさんの医者が僕の口を開けて「大丈夫?気づいた?」と言っている。
当然声も出ないので、渾身の力を込めて頷く。
「点滴してるから、すぐ元気になるからね」
点滴!?人生で初めての点滴が親知らずによるものだったとは、、確かに1秒ずつ体力が回復し視界もクリアになっていくのが分かる。アンパンマンのように、斉藤夏輝の顔を丸ごと交換できれば一瞬で元気になれるのだろうが、そうもいかないのが現実である。
角田みたいな医者は若い女性の医者を呼びよせる。これから処置するから口開けてねと言われ、2人がかりでの施術が始まった。
が、口を開けると早々、「これ、どういう状態になっているか分かる?」
と、角田が若い女性医者へ教育をしているのである。
若い医者はうーんと3秒くらい悩み、云々と専門用語を話している。サンスクリット語かと思ったが、それよりも早く施術に移ってほしい。まあそれほど緊急性はないということが分かって安堵したこともまた事実であるが。
施術中、「あーーなんでこれこんな結び方してんのよぉ。普通〇〇だろ、、」と角田の独り言があった時は、これが抜いた歯科医のミスであることが分かった。しかも帰り際に角田から「どこの歯医者さんで抜いたの?」と言われ、近所の歯科医の名前を答えた時には腑に落ちたような表情に見えたのは気のせいだろうか。
そんなこんなであっという間に施術は終わった。もちろん出血はないし、痛みも不思議とないのである。医者の腕というのはかくも差が出るものなのかとひしひしと感じた次第だし、何よりこんなすぐに命までもをその腕で救ってしまう医者(=角田)かっこいい!ボクも角田になりたい!と思わずにはいられない。
もし僕が小学生だったら確実に将来の夢は口腔外科医と答えることだろう。まあそんな頭もなければそもそも文系なんですけど。
ちなみに翌日、抜歯した近所の歯科医のところへ行き、経緯の説明を行って救急院での費用を負担してもらうことになった。
僕としても大事にはしたくなかったので、事実を淡々と話すようにしたが、歯科医が医療ミスを受け入れることはなかった。抜歯の際のお金もなんなら返してくださいと申し出たが、理由をああだこうだと言われてそれは断られた。
しかし、その代わりなのか、帰り際に長ネギの緑色のところが少し見えるくらいの大きな紙袋を渡された。
そこには歯科医でしか売っていない、なんかいい感じの歯ブラシやこれまたいい感じの歯磨き粉、限定のモンダミン、かざすと適量が出るモンダミンの機械が入っているお楽しみBOXであった。
お口クチュクチュしてモンダミンと一緒に水に流してくれってことでしょうか。
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僕は歯医者版ハッピーセットの紙袋を手にして家へ帰った。もう2度と来ることはないだろう。ピカピカの診察券もすぐに処分した(ボクってミニマリスト!?)。
生きててよかった。生きていることを実感する帰路では木漏れ日も神秘的に見えてくる。もしあのとき1人で、僕の周りに家族がいなければ血を流して死んでいてもおかしくない。自動車教習所で人間の流血は1Lを超えると死に近づくと教わったが、平気で1Lくらい吐いていたに違いない。
親知らずで死ぬ思いをし、親に感謝するとは思いもよらなかった。親と一生共有できる、親知らずの思い出だ。
【追記】
後日、親知らずの痛みがなくなってからその自動モンダミン機を使ってみた。もちろんモンダミンも貰ったやつである。まあ感想という感想は別に持たなかったが、家電好きのミニマリストでも絶対に導入しないだろうなといったところだ。我が家では数ヶ月の後、その機械の姿はなくなったし。あ、あと、親知らず抜いた次の日、口が開かなすぎてバナナ食べるのに30分もかかったわっ!
みなさん、歯科選びは慎重に。
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