33月に寄せて 其ノ参:『結局、』③

0/7:はじめに

まず初めに声を大にして断っておく。今から扱うのは、非常にセンシティブ
かつ、ナイーブな題材「マスク」だ。気にする人間にとっては、警察沙汰に
までする大問題である。気に食わないなら読まずに帰りたまえ。

ここに俺のスタンスと考え方を記す。

【「マスク」は、着けたい人がいくらでも着けてもらっていい】。
元気であろうとなかろうと、着けたい人は周りの環境の何がどうあろうと、
色々なことが元に戻ろうと、着けてもらっていい。外されて、精神病まれる
くらいならばそっちのほうがいいだろう。

明らかに風邪引いてる人間は着けとけというか出る『前に』家で休んでろ。
「外せ!!」とは超高温やら本当に致死率が高すぎるやらで命に関わる場面
以外、絶対に言わない。その代わり、強いるな。着けたくない人間は、他で
風邪を引かないように何か対策をしている。ここまで風邪すら引けない社会
にしてしまっているのだから。

施設やらイベントの運用にあたっては、強いる意味を管理者や主催者目線で
もって書いてくれ。利用者のせいにするな。※で小さく例外など書くぐらい
なら、後で担当者に電凸され頭下げることを嘆くぐらいなら、はっきりと書
いてほしい。明らかに差別だ排斥の意図があるというなら、自白せよ。

そして強いるならば、いっさいの弊害を嘆くな。嘆かれるぐらいなら、同情
されるぐらいなら、元に戻すように声を上げてもらったほうが一億倍いい。

そして、表題的に、なおかつこの騒動が終わらないままの今は月が変わって
さしづめ「2020年34月」だが、これに関しては「33月からの思い」
を記すためこのままのタイトルで行かせてもらう。

1/7:結局、目立ちたくない

「出る杭は打たれる」ということわざがある。才能や手腕が優れたものが、
人から憎まれ、妨害されるというものであったり、差し出たことをする者は
人から非難されるという意味のものである。

ことわざとは「あるある」の集合体である。つまるところ、日本人としての
特性が生み出したモノなのだろう。この辺りについては、大学の人文学部の
人々にでも研究を任せるとして。しかしながら「二度あることは三度ある」
があれば「三度目の正直」もある辺りが実に日本人らしい。

さらに行って「出過ぎた杭なら打たれない」という言葉が存在する。ようは
自分の叩ける範囲にあるものなら叩くが、そこからはみ出たものは叩くだけ
無駄じゃねえのということだ。それが善にしろ、悪にしろ。

この辺は別の項でも語るが、人間、自分の思考の範疇を超えたところに手を
出すと疲弊する。精神を病み、考えることすらやめる。自分の理解を超える
ところに与しないことは、ある種の自衛なのだろうな。

逆に言えば、自分の思考の中でならいくらでも手を出していい。その中で、
もし自分の意見に反する物があれば議論から暴力にいたるまで、理想の形に
近づけていくだろう。

最近ことさら、大多数の人間や企業が履き違えていらっしゃる「マナー」に
してもそうだ。マナーと聞けば「その場に合った高尚な振舞い」という所を
想像するだろう。要するにそういう事。言ってしまえば「雰囲気づくり」を
3文字の横文字で表し、そこに品性をまぶしたものがマナーである。

これに背いたところで逮捕されやしないし、死にも殺されもしない。ただ、
その場の人間が「なんだアイツ」と思うところから始まり「雰囲気が崩れる
から、出ていけや」と排斥するまで多岐に亘るだけ。「悪目立ち」である。

単純に人の心が乱されるに『過ぎない』。逆に言えば、その程度でしかない
ものに対し法律で縛ったりすることがいかに危険かという事だ。ましてや、
人の呼吸に関することは言うまでもない。容易に想像がつくはず。高級酒場
における男のネクタイと同列に扱ってはならない。

「出る杭を『打つ』」側としては「その場の雰囲気を守ったったぜ」とか、
「悪目立ちをする連中を追っ払ったわ」と正義感に満ち溢れることだろう。
俺もかつてアルバイトをした店にチンピラ(失礼)が来た際に毅然と対応し
追い払った後、そういう気持ちになったことがある。

ことさら、初期の初期に「命を守れ」と喧伝されてしまったがために、国民
は恐慌状態にされた。あのプロパガンダじみた生活の様式。あれを守らねば
命が無いとまで脅されていた。命とは生きる上で守るべき最上の物である。

逆に言えば、それまで通りに飲み歩いてた、くっついてた、素顔でおった、
他県から来たという、本当にそれだけで「命を脅かす悪者」と思わされた。
いわば「ナンタラ警察」……いや警察に失礼だ。チンピラでいい。質の悪い
ことに、先に述べたように「命とは生きる上で守るべき最上の物」。これを
守る正義の大きさ、守った後の高揚感や満足感は想像に容易いだろう。

もはや、こんなことでは『いち感染症』というか『いち感冒』に対する行動
などではなく「出る杭を打つ」快感にまで依存した中毒患者の社会である。

2/7:歪んだKY

学生の頃を思い出してもらえると分かりやすいが、大抵の学校には「制服」
があり、それを着崩したりしてると怪訝な目で見られたりしていたと思う。
学年が上がるにつれてそれも破綻していくが、厳しいとその辺が「校則」で
定まっていたりする。

最近になって、その校則が髪型や髪の色まで及び、それが行き過ぎている点
が、ようやっとニュースでもちょいちょい話題に上ってくるようになった。
まあ校則とは社会規範の事前学習のようなものであると同時に、学校の印象
づくりやら先生方の沽券のためだろうが、これがために若人の人権に関わる
センシティブな部面にまで踏み込みすぎるのは、俺もいただけないと思う。
特に男女交際は法に触れない範囲で赦したれ。

校則と言えば、俺が行っていた高校は「携帯電話を契約し所持することすら
禁止」であった。15年ほど前のことである。その大義は「学業に差し障る
から」だとか「授業中にケータイが鳴ると授業を中断せねばならない」等で
当時から生徒側から「いい加減緩和してくれ」と何度も声が上がっていた。

生活指導の先生は、ひたすらそれを強調して指導していたし、実際に街中で
電話を触っているのを先生に見られて、色々言われた同級生も何人かいた。
俺も、近場では電話を出さないようにしていたっけ。懐かしいな。

ヤンチャな同級生がある日、街に出かけた時に年寄りを助けた際間違いなく
救助のために携帯電話を使ったが、「その辺の人に助けを呼ぶよう頼んだ」
と茶を濁すレベルだった。行き過ぎである。

しかし「正直なところ黙認。俺の担任は間違いなく黙認。教え子とケータイ
の性能の話をする」「携帯電話を契約すらしていなかったのは、240人中
わずか2人」という実態があった。そんなもんである。

15年以上が経った今、突然緊急地震速報だったりエリアメールが来たりで
ソレが間違いなくバレるはずだが、軟化したのだろうか。

さて、特に大学や専門学校まで行ったかたがたならばよく分かると思うが、
「就職活動」においては、これが顕著になる。みんながみんな(特に女子)
似たような髪型、似たようなスーツ、似たような言葉遣いと振舞い。今まで
好きなカッコで自己表現し青春謳歌してたところに、突然である。

まあこの辺は、ダボっとしたシャツにスニーカーで「オイーッス」と言い、
「あのー、会社入りたいんスけどぉ、入れて下さいよ~」と来る奴に対して
「なんだコイツ」となるのも自然な事であると断りを入れておく。

しかし、あまりにも全員が全員似たような恰好や立ち振る舞いになることに
不安感を覚える若人(いや今は若人に限った話ではないか)は果たして多い
のだろうか。俺はある種、気持ち悪さまで覚えた。

いわゆる「就活ビジネス」まで話を踏み込むと取っ散らかりそうになるので
ここではやめておくが、一種の「協調性」「空気感」を醸成していることは
確かだと思う。黒光りしている最近おろしたであろう上下に始まり、女子は
後ろを結んで、ピチッと分けて真っ黒に染め直した前髪。大多数の日本人は
その個人やこの集団を見て「ああ就活生か」と思うことだろう。

しかしそんなことは、自身は就職活動を終えてしまえばケリをつけられる。
1年目は1年目でまた別な振舞いかたを強いられるだろうが。で、「ああ、
あいつ新人か」という、「醸成されてきた空気」のもと判断される。

そして他ならない、2年前に怖いほど早く喧伝された「新しい〇〇」すらも
根本は同じだと思う。ただし、その源こそ果てが無い。「命を守る」という
最大の正義と、「何十万人も死ぬ」という最悪の想定。

日本人は何よりも「死にたくない」。このあたりの事は別のときに語るが、
この状況下で死ねばどうなるかの一部始終は、あのバカ殿様が示していた。
否、「バカ殿様を使って各メディアがつぶさに伝え倒した」。

この合わせ技。その結果見事なまでに恐ろしい速さで、その場しのぎでしか
ない行動が「協調ある事」、それに勤しむ国民で埋め尽くされる光景こそが
「正しい空気」だと流布されてしまったのである。

いや、当時あのゴーストタウン、「誰もいない状況」こそが「正しい空気」
だったために、誰もいないことが正義になっていた。まるでNUL値で欄を
埋めるようなもの。「なにもないがある」「なにもないが正しい」である。

さらにはこの状況に文句ひとつ言わず、おかしいと思う声すらも上げずに、
もはや盲従しているさまを「謙虚」と履き違える大人。これが年端も行かぬ
子どもになると「健気」と誉めそやす。いや、そうじゃねえだろう。納得が
行かないことに対し異を唱えることは果たしてワガママなのか?

しかし、そんな意見ももみ消され、踏み倒され、行き過ぎたのが今である。
一昔前に流行った言葉で表せば「KY」。ちょっとその場の雰囲気を乱され
たのをフランクに咎めるだけのこと、まさか十数年後に、これが「正義」と
まで言われるとは思わなかっただろうよ。

ましてや、こんな行き過ぎたことになるのは、2年前と言わずにこれまでの
疫病差別の歴史から振り返れば十分に、十二分に分かり切っていたことで、
今度は旅客業法でもって上塗りを繰り返そうとしている。

法務省からも出ているはずの「コロナ差別はやめましょう」も虚しく、今も
教室で、街中で、船上で「歪んだKY」が「謙虚を履き違えた輩」によって
行われている。我々は戦中の国民精神総動員法や、外国で起こった人種差別
を全く笑えないところにまで来ている。

3/7:現代の忍者

日本人は元から目立ちたくないとも言われてきた。ただ、目立つ者がいれば
それを妬み、嫉み、叩いてきた。そして、そうされたくないから目立ちたく
ないだけなのでは、なんとも醜いことをずっと繰り返してきただけなのでは
と思っている。

中世から幕末までの日本と聴き、想起されるものは何だろうか。侍という者
もいれば、農民を思い出す人もいて、殿や武将と答える者もいる。そして、
忍者を思い起こす者もいるだろうか。

一般的に忍者と言えば大名や領主など主君に仕え、顔を隠し、闇に紛れて、
こっそりと任務を遂行する。日本の伝統的なスパイのようなものだろうか。
様々な術を巧みに使い、それでいて忍ぶ姿は表に出ることはない。

「謙虚さを履き違えた」という考えを書いたが、よくありがちな「名乗る程
の者でもござらん」というのも謙虚のようなものだと思う。謙虚の笠を借り
その後のやり取りが煩雑だったりすることを避けるだけとも言えるが。

なんとも現代の日本人と相性が良すぎるうえ、この情勢にすら見事にマッチ
する。名前以前に顔を晒すまでもなく、それでいて、主君が喧伝する対策と
やらに従い続け、それに反する者や事を叩く。七つ道具はさしずめ、消毒液
やアクリル板、検温器、ココア、PCR、そしてスマホにテレビだろうか?

素顔でおる人間を密告し、その店の主に出動してもらう。同じ事が学校でも
繰り返され続ける。これもまた正義なのである。正義の反対とは、また別の
正義である。

近々外国人の観光も大きく緩和されるが、ぜひとも彼らに教えたいものだ。
令和の世、白昼にNINJAは存在する。しかし、それはただ「忍んでいる
だけの者」でしかない。そして、欲にまみれたSHUKUNもTONOも、
しっかりと存在すると。

4/7:もはや対策の範疇をはみ出している

さて、顔を隠すにあたり、2年前から間違いなくこんなことになるのは分か
り切っていたことであり、絶対に看過できない問題が俺は2つあると思う。

一つは、乳幼児から思春期の「子どもたち」、特に女の子を中心に起こって
きている事であり、普段俺の叫びを読んでくれているかたがたならば、この
辺りは知っていることと思う。

「もはや顔を見せることも出来なくなった者が出た」事である。

2年半。この騒ぎは令和元年度の3学期に起こったことなので、学年にして
「4学年目」である。令和4箇年で、この疫病騒動に侵されなかった年度は
一つもない。これを決して「日常」と形容すべきではない。

幼稚園、中・高と3年で区切られる今、この「4学年目」がいかに長すぎる
のかは言うまでもない。おそらくはクラスメイトですら顔を見たことがない
まま卒園や卒業を控えている者がいるだろう。

現に俺も、2020年度以降に入った新人で、顔すら見ないままやめた人間
が多数存在した。休憩時間中に一瞬、つい先日の飲み会で一人の顔をやっと
拝めたほどである。

色々な人の呟きを見ていると、学校現場あるいは近しい場所での、我が子で
あったりお友達であったりの体験を見かける。ニュースなどでも報じられて
今問題になっていることがある。
(俺としては煽っておきながらどの口が言うかという気持ちだが)

「顔を見せたくない」「顔を見られるのが怖い」
「自分は醜いと思っている」「他人に醜いと思われている」

「だからこのままでいい」

大人の一員として、こんな思いをさせていることに対し、本当に詫びなけれ
ばならない。本当に申し訳ない。「命を守る」はずの対策が、「心を削る」
結果になってしまった。しかしながら、俺は改めて腹の底から言いたい。

【こんなことになるのは2年前の時点から分かり切っていなかったか。】

とりわけ思春期においては、やれカワイイだ、イケメンだ、ブサイクだと、
顔についてえげつないほどの思想がまかり通る。俺もよく言われたもんだ。
さらにはニキビやらで顔がえらいことになる者もいる。俺もそうだった。

俺は肌のケアをろくにしなかったために、デコにおびただしい量のニキビが
出現していた。いつしか俺は前髪を伸ばし倒し、学校から帰って遊びに行く
ときには必ず帽子を被るようになった。前髪が目に入ろうが関係なかった。

幸か不幸か、高校に上がった時に校則で髪型まで規定されていたため、半ば
「観念」した形となり、髪を切ることになった。そりゃ最初はイヤだった。
きたねえデコを晒すとは、こんな高校入るんじゃなかったと本気で思った。

しかしその後、たくさん飯を食べることや野菜ジュース等で栄養をすすんで
摂る、洗顔をマメにするなどして、ニキビはかなりの改善をみせ、高2の頃
には殆ど出現しなくなる状況と相成った。

もちろん、これは俺がたまたまうまくいっただけであり、こんなことをして
まで、同じノリで素顔を晒していこうなどと、とてもじゃないが言えない。
認知療法や行動療法を駆使し、徐々に長い時間を掛けても慣らしていくしか
ない、立派な「心の傷」になっているからである。

例の感染症には罹らせずとも、別の傷を深く負わせてしまっていることを、
どうか俺含め全ての大人は肝に銘じてほしい。そして俺たちが出来ることは
顔を見せられなくなったとしても、それを尊重し、安心して実社会でやって
いけるような、そんな仕組みを作って行くことだろう。

しかしながら、望みもしないのに対策を強いられている子らを解放すること
もまた急務だ。行きつく先は「マスクをしている子もそうでない子も大切」
というあのポスターである。

まあこの辺りは、大人にも言えることではあるがな。化粧がどうしたとか、
ヒゲがどうしたという話を見かけるが、「大人はテメーからなんとかせえ」
とも言いたい。

無精ひげの著名人も数多出てきていることだ、よほど浮浪者レベルでもない
限り、ヒゲすらも個性にしていかんかとも言いたい。ゴマ塩?ヒゲダルマ?
上等じゃねえか。分かりやすくていい。気が向けば剃ればいい。

化粧も、ガッツリがいい人、すっぴんで良い人、それぞれなわけだろ。それ
こそ、「見た目でばかり判別すること」をやめていくことが、今世紀新たに
課された日本人の宿題と思おうや。

何も顔だけじゃない。「マスクに非ずんば感染対策に非ず」の考えのような
見た目でしか判断できない頭をも叩き直せということだろう。

口々に聞こえる「元には戻れない」。ああ戻れないだろうな。こんなことに
なっちまっているのだから。「あちらさん」の言い分を聞くに、これはもう
分かり合えっこないなとまで思う。

せめて、その考え方の相違から関わらない選択をするにせよ、互いに健康の
あり方だけでなく、「ルッキズム」をやめていき、心から人の内面まで尊重
しあうような社会を、新しく築こうや……とまで想うのは、高望みか?

5/7:顔が隠れるという事をシンプルに考えろ

第二に叫びたいのは、「よくもまあこんな『常識的』なことを、感染症防ぐ
ためだけに放棄し、大体色んなことが分かった今も尚、この問題を拾わずに
おれるよな」という事である。

「誰が誰なのか分からないことに起因するデメリットがある」事。

人の顔が半分とはいえ見えないということは、その部分は分からなくなると
いうことは誰でもわかる。単純に考えろ。表情の前に、顔が見えなくなる。
誰か分からなくなるという事だ。半分だけとか慣れてりゃ分かるとかいう、
クソみてえな屁理屈は捨て置け。上半分だけ似てるような奴はいるだろ。

名前も声も素性も分からねば、あるいは、その場にいなければ、現実世界で
人探しをする時に頼るモノは「顔」だろう。そのツラだよ。例えば、ある人
を探すときに「服」で探しても、着替えられてればそれで終わりだ。

声も、喋らねばそれまで。名前すらも偽られればそこまでである。だが顔は
余程の整形を加えねばそうそう変えられるものでもない。コレが分からない
となると何が要因か。「隠す」ことだ。今なお、国民の大多数が着けていて
大流行りしてるブツは、顔をどうする。

「指名手配書」がある。つい最近になってマスクありきの指名手配書が出て
きたが、2年遅いというか、それまでの指名手配犯、全員野放し確定になる
ことぐらい分かっていたはずだろう。

万が一、俺が2020年春当時に指名手配されていたとしたら、この状況は
降って湧いた「天啓」と思うぞ。高い費用かけて何度も整形し、逃げ続けた
指名手配犯のようなことをするまでもなく逃げられる。

雑踏に紛れ、何かコトを行うにしても、ツラが割れないようにするだろう。
芸能人も、ゴシップ記事やらパパラッチやらの面倒事に巻き込まれぬように
顔を隠す。それほどまでに、顔とは重要なものである。

また、人は文字に頼らず意思を伝える時は、顔全体でも伝えるモノである。
目だけで伝わることなど、たかが知れている。サングラスしてみろ、ジェス
チャー以外やりようがない。

忘れもしない今年7月8日の安倍元総理銃撃事件。ホシが割とあやしい動き
をしていたため「直前の」とかいう動画もあった。今から歴史的大罪をする
となればツラが割れてはならない局面である。

しかしあの時、猛暑にも関わらず、群衆はほぼ全員マスクを着けていたな。
平時に比べ格段に、遥かに混ざりやすかっただろう。SPの人々も果たして
アイコンタクトだけであの局面を乗り切れただろうか。

行方不明児の報道が相次ぐ。まあ犯人捜索で特徴を述べたりするニュースに
も十分言えることだが、この見出しの頭で書いたように、顔の「上半分だけ
似てる奴はいる」のである。似てる人物が平時よりも「増える」、すなわち
特定に時間がかかるということだ。

「それも織り込んで……」等と、悠長なことをしている場合ではない。特定
するまでに余計かかった時間のぶんだけ、探している子どもは遠くへ歩き、
あるいは連行され、はたまた手をかけられているかもしれない。

ここまで弱り切ったウイルス一辺倒でいては、大事なことを見逃す。それは
生活の様々な局面に潜んでいるが、なぜか頑なに気付こうとしない。両立を
まともに図ろうとも、危なさを分かろうともしない。

幸か不幸か、これを逆手に取った凶悪犯が思ったよりも出ていないことは、
正誤はどうあれ今ある秩序を守りたがる今日の日本人の特徴が作用した結果
なのだろうか。

6/7:多様性はたわ言か?

さて、つくづく思うのは「多様性」を喧伝する割に、そのじつは一くくりに
してしまおうという思惑があるのではないかということである。この辺りに
関しては怪しい話などにも繋がってくるが、これも風呂敷が際限なく広がる
ため、ここでは多くを語らないことにする。

主題である「目立ちたくない」に軸を置いて語るとすれば、「目立たぬ範囲
で自分なりにやれ」という事だろうか。例えば「ネクタイは強制するが柄は
問わない」、「制服は絶対だが中に着るシャツは自由」という所か。学校で
「進学のための効率のいいノートの取り方までは教えるが、最終的なノート
の取り方までは問わない」ことも言えるだろう。

ただ完全になにもかも自由にしてしまえば、それこそやりたい放題であり、
無秩序な状態にまで堕ちるだろう。これを阻止するのが法律や条例である。
つまり法になってしまえば、背いたら罰が与えられる。

しかし、全てを縛ってしまえば国民に自由はなくなってしまう。これを保障
している(はずである)のが憲法である。

つまりは、法に軸を置けば「合法の範囲で自由にやってよし」ということで
あり、憲法に規定されていることなのでそれを侵すこともできやしないはず
である。もう一度言う、「それを侵すことはできやしないはず」。

Twitter上でもフォローしてるかたが声高に叫んでいることがある。
「コロナに法律はいらない」
法で縛ってしまった時点で、「自由にやってよし」ではなくなってしまう。
感染対策とかいう今大多数の日本人が金科玉条にしちまってること基準で。

先ほども書いた旅客業法の事についても、もしまかり通ればどうなってしま
うのかは予想に難くない。空気の拡大解釈をした旅館が、ただ素顔でおって
ちょっとそこで走ったとかで息が上がっとる旅人を放り出すだろう。

何度も言うように、現に今、法で縛らなくとも似たような事が起きているが
これを根拠にでもして本当に法律で縛った暁には、この国は名実ともに全体
主義国家にまで成り下がり、後戻りできなくなる。

これが仮に「100年後とかに来る別な感染症のためだ」とかいう大義名分
があるにしろ、大多数の日本人はそれがスデに今来ていると思わされたまま
であるし、それを承知で放置している体制側になど、なんら説得力はない。

7/7:最近の街に思う

Twitterでも何度かフォローしてるかたと話したことで、なおかつ、
オシャレ好きの前職の先輩とも話をした、ここ数年の街の光景についてだ。
俺もセンスは皆無だが、まあ、服や靴とか見るのすげえ好きではあってな。

「鮮やかさが減った」

まず声を大にして断っておくが、無彩色やら、大人しい色が好きな人を非難
するようなものでは全くない、というか、そのくらい考えてもらいてえもん
ですがね。流行色が今何色かなどでなく、とにかく街ゆく人を見て思った。
景色が重い。

モノトーンだったり、色がひたすら濃かったり薄かったりで真ん中がなく、
彩度が低い色の服着てる人がすげえ多い。特に女の子。派手な柄物と言えば
タイダイシャツぐれえしかないんじゃね、っつうくらい、大人しい。

3年前なんかはちょっと歩けば真っ赤とか真っ黄色とか、攻めてる服の人は
普通にいた。今半分かそれ以下くらいしか見かけない。この間もダチと休み
の日の昼にハンバーガー屋から外を見てたが、全然いなかった。

大体が「全員病気前提」なせいだと思う。これだけはガツンと言わせろ。

雑踏に視野を広げると、真剣に馬鹿にできない状況だと思う。雑踏とは街の
活力だ。2年前の4月、あの誰もいなくなった街は「死んだ街」だと言われ
たが、全員病気前提の人間が歩く街も、似たような物だろう。

人間は生憎くちばしのようなマスクを着けても鳥になれないが、今なら俯瞰
する技術がある。もし目の前の人ごみしか見えてないというなら、ぜひとも
ナンタラ神宮の初詣の上空写真なり、舞台を演者最前面で観客席をバックに
映した画像なりを見てみるといい。

人垣の中のほぼ全員、顔の下半分が一様に、白あるいは他の色で塗りつぶさ
れた光景に対して「『何も』思わない」「むしろ正常」とまで言い放つなら
もはやそいつと議論することは、一つもない。

【其ノ参 完】

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