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アウシュヴィッツ探訪

それは雪が舞い落ちる2月のある日のことで、凍てつく寒さは1日中続いた。私を乗せたバスは、緩やかな山道を果てしなく登っていく。車窓には殺風景な荒野が広がり、薄っすらと積もる雪の白さが、味気ない灰色の世界に色を添える。
誰もが一度は耳にしたことがあるであろうアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所は、ポーランド第二の都市クラクフの郊外にある小高い山地の上にひっそりと遺っていた。

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アウシュヴィッツ訪問に先立ち、現地に1人の日本人ツアーガイドがいるという情報を入手した私は、その人物の連絡先を調べ、直接メールを送っている。その人物の名は中谷剛氏といい、今でこそWikipediaに立派な記事が載り、昨年8月の東洋経済には氏のインタビュー記事も掲載されているが、当時はまだインターネット上の情報も少なく、どのような人物なのだろうかと少しドキドキしながらメールをしたためたのを覚えている。

数日後中谷氏より返事があり、その日は別の仕事が入っており会えないということだったので、仕方なく私はガイドを付けずに1人で廻ることにした。

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私たち観光客も、そして70年以上前にこの地に連れてこられた人々も、「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」と書かれたゲートをくぐって入場する。
実際には働くことすらも許されずに即刻虐殺された人も多数いたと言われており、その数は定かではない。たとえ労働力として認められ収容されたとしても、多くは使い捨てであり、非常に過酷な労働を強いられ、結果として総収容者数の9割以上が命を落としたとされている。

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この一帯は水はけの悪い湿地帯で、溶けた雪がぬかるみ、あちこちに水たまりが生じていた。当日の気温はマイナス5度。分厚いダウンジャケットに冷たい風が突き刺さる。
薄手の麻布1枚で、裸足でこの地に閉じ込められた人々のことを思った。

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第二収容所のビルケナウは第一収容所のアウシュヴィッツから3km程離れたところに位置している。大戦中に建設された粗末な建物で、建物基礎もなく、湿地帯のぬかるんだ地面の上にそのままに建てられた掘っ立て小屋のような代物である。その住環境は劣悪を極め、感染症も蔓延したと言われている。

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木と煉瓦で作られた三段ベッドには、常時大勢の人々が折り重なるように眠っていた。穴の開いたコンクリートは、トイレである。プライバシーもへったくれもない、なんと悲しい場所だろうか。
写真を撮らなかったことがひどく悔やまれるのだが、イスラエルから来ていた修学旅行生が、薔薇の花を一輪、そっとベッドの上に置いていたのが印象的だった。

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第一収容所のアウシュヴィッツでは、かの有名なガス室や銃殺刑に使用された死の壁、見せしめの為に常時遺体が吊り下げられていた場所など、数々の非人道的罪の遺産を見学することができる。また、初代所長であり、後のニュルンベルク裁判にて死刑を宣告されたルドルフ・ヘスの絞首刑台も当時のままの姿で保存されている。

なおここら辺の詳しい説明に関しては、経験者の証言所長ルドルフ・ヘスの告白遺録、研究者の執筆した書籍等に譲ることとしたい。

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また、収容された人々の旅行鞄や靴、眼鏡、義足など様々な遺品も展示されていた。

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ポーランドはドイツ(ナチス)とロシア(ソ連)という大国の狭間に位置し、その歴史は独立と服従の繰り返しであった。ナチスによるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の稼働は、1945年1月のソ連軍侵攻と共に幕を閉じるが、その後ソ連の傀儡国家となり、ポーランドが独立を勝ち取ったのは1989年になってからである。

アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所はポーランドの蹂躙された歴史の1ページである。百聞は一見に如かずという言葉が示す通り、教科書を読んだだけでは分からないことを――それは悲しみかもしれないし寒さかもしれない――肌で感じる為に、一度この地に足を運んでほしい。そしてその際は、中谷氏のガイドを付けることを是非お勧めしたい。

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