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スターリンの故郷を訪ねて

 ソ連創始者ウラジーミル・レーニンの死後、5年にもわたる権力闘争の末、1929年に最高指導者に就任したヨシフ・スターリン。亡くなるまでの24年間、スターリンは国内外の非常に多くの人間の殺害に寄与したと言われており、その残虐性は過去のソ連指導者の中でもトップクラスだろう。今回はそんなスターリンのルーツを探るべく、彼の生まれ故郷であるジョージア(グルジア)のゴリを訪ねた。

 ジョージアは北にロシア、東にアゼルバイジャン、南にトルコ、そして西に黒海が位置する、山あいの小国である。1991年までソ連の構成国だったがソ連崩壊のタイミングで独立を果たした。ジョージア、アゼルバイジャン、アルメニアの3か国を総称して南コーカサスとも言い、これらはいずれもソ連崩壊とともに独立が叶ったが、コーカサス山脈を挟んで北側にある北コーカサス地域は依然ロシアの支配下に置かれており、独立を主張する住民と親ロシア派の住民との間における争いが絶えない地域でもある。

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 スターリンの故郷ゴリは首都ティビリシから西に約80㎞、車を飛ばせば約1時間半のところに位置している。道中では美しい山並みや小川、教会といった風景が楽しめるとともに、運が良ければ羊の群れにも会えるだろう。

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 スターリンは靴職人の父と他家で家政婦として働く母の間に1878年に誕生した。父はアルコール依存症で稼いだ金をほとんど酒代に溶かしていたといい、それゆえ、当時住んでいた家は持ち家ではなく借家、しかも寝室と食堂が一体化した一部屋のみという非常に貧しい暮らしだった。ゴリにあるスターリン博物館には、当時暮らしていた家がそのままの姿に保存されている。

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 スターリンは宗教熱心な母の勧めでロシア正教の神学校に進むが、その後無神論に転向し、学校も退学している。やがてレーニン率いるロシア革命を目指す一派の活動に傾倒するようになり、過激革命家としての人生を歩み始めることとなる。
 スターリン博物館には当時のスターリンのポートレートが展示されていた。なかなかにハンサムな顔立ちで、「一緒に国を変えよう」などとこの顔に言われれば、あまり後先考えずについていった女の子も1人くらいはいたのではないだろうか。

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 さてレーニン死後ソ連の最高指導者となったスターリンだが、彼の行った政策のうち最も有名なものが「大粛清」だろう。極度の猜疑心にとらわれていたスターリンは周囲の誰をも信じることができなくなり、疑わしきは罰せよとばかりに、次々とシベリアの強制収容所等へ送った。その対象は共産党員や政治家のみならず一般市民まで及び、死亡者数は数十万人とも、数百万人とも言われている。

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 1941年、ヒトラー率いるナチスドイツがソ連に侵攻する(バルバロッサ作戦)。大祖国戦争の始まりである。この戦争は最終的にはソ連の勝利に終わり、今もなおロシアでは毎年5月9日の戦勝記念日に戦勝パレードを行い、この勝利を盛大に祝っている。

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 しかしこの戦争において、スターリンは大切な一人息子をドイツ軍に捕らえられている。ドイツ側はソ連に対しスターリンの息子とソ連にいるドイツ人捕虜の交換を提案するが、息子の口からソ連の機密情報がドイツ側に漏れ伝わったと考えたスターリンは激怒し、この提案を一蹴したと言われている。また他説では、息子が自分を困らせる為にわざと敵に捕まったと考えたとも言われている。息子はその後ドイツの強制収容所で亡くなった。一説では、父親の非情さに絶望し、自ら電気網に突進し感電死したとされている。
 スターリン博物館には、息子が幼少期にスターリンに贈ったオルゴール箱が展示されている。箱には絵具で"на память папе"、「お父さんへの記念品」と書かれており、その愛らしさが涙を誘う。

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 大戦末期、アメリカ・イギリス・ソ連の3国でドイツの戦後処理について話し合う為、スターリンはヤルタ会談に臨む。その際にスターリンが乗車したとされる、当時の夜行列車も公開されていた。

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 夜行列車の中はいたって質素で、ソ連の最高指導者ともあろう人間が果たしてこんなところで安眠できたのだろうかと心配になってしまう作り。会談中はさぞかし眠かったことだろう。

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 たくさんの人を死に追いやったとされる悪名高きスターリンは、1953年に脳卒中で死去した。猜疑心の塊となっていたスターリンは、鋼鉄の箱のような寝室を複数作り、どこで寝ているかは誰にも知らせなかった。その為発見が遅れ、死に至ったと言われている。
 博物館にはスターリンのデスマスクが展示されていた。以前モスクワのレーニン廟に飾られていたもの(現在は公開されていない)を元に作成した為、本物より一回り小さいらしい。

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 念の為断っておくが、私はハイキングを目的にジョージアを訪れたので、スターリン博物館はあくまでもついでである。しかしながら現地の博物館ガイドの話に引き込まれ、気づいたらまるで信奉者であるかのごとく長文を書き連ねてしまった。博物館ガイドは何度も"He killed so many people."という言葉を憎しみを込めて繰り返した。二度と繰り返されてはならない歴史の重みを改めて考えさせられた。

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