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映画大好きポンポさん/銀行員とジーン

面白すぎた。ありえない。面白すぎた。
某有名実況者が称賛しているのを知ったのが約ニヶ月前ぐらい?その後配信されている原作漫画を読んで、それっきりだった。Netflixに並んでいるのを見かけて、期待を込めて再生した。

背景技術が素晴らしく、話の序盤の序盤から引き込まれる。「盛り上がりはまだ当分先なのに画面から目が離せない」という状況が生まれる。濡れた車道、キャラに掛かる逆光の稜線、瞳のカット。多くのシーンをしみじみと思い返すことができる。

銀行員くんは原作にいたっけ?(いたら申し訳ないのだが) ジーンとカフェにいるシーン、ジーンは日向にいて、銀行員くんは屋根の陰にいた。銀行員くんは、ジーンはずっと前を向いていたこと、ジーンの目が輝いていることを伝えた。(ジーンは少し微妙な顔をしていた。)
そもそも私はくたびれた勤め人が好きだ。理由はない。
銀行員くんの、上司に「努力をしていないなら成功するわけがないだろう」と詰められているシーン。あそこの銀行員くんの、見開かれた後落ちる視線について。
努力していなかったのかもしれない、自分の落ち度なことは確実である、わからないことが多すぎる。自分はできなかった。自分は一体今、どのあたりにいるのだろう、という感覚。あの一瞬でありありと思い起こされたのはやはり、映画の中の彼に自分を見ていたからか。
思い返すと私はこういったシーンが大好きだなあと実感する。「君と宇宙を歩くために」の二巻、

多分俺が悪いんだ そうなんだと思う
悪かったなって思ってる 本当は痛いほど でも
なんでだろう? って思いながらそのまま落ちていくしかない気がして
それをわかってくれない相手も自分も嫌で
情けなくて ムカついて…

泥ノ田犬彦『君と宇宙を歩くために』二巻151P

も好きだ。ふとそらんじてしまうほどには好きだ。きっとこのシーンもこれから何度か思い出す。

私は「自分ができた人間でないことを切に感じながら身動きが取れない人」に、共感を持ってしまう。ええ、ええ。それではダメなのだ。
だって創作物の中の彼らは進みだす癖に、私はというと傷口を掘り返して「私も動き出さないとなあ!」と焦り、気持ちよくなって、そこで終わってしまうから。進みたいけど腰が重すぎる、というのはかくして私の短い人生のテーマになった。

人間の中には、軽々と椅子から立ち上がり自分の興味のあることを追求していく人、というのが少なからずいる。私はというと、どこで間違ってしまったのか、人生讃歌的な表現を誰かと見たときに「なんで書類放り投げたw?」と口に出してしまうようになった。無気力、不出来が人と共感し合う上でのマナーなのだと心得、いつの間にかそうなってしまった。そんな人間になった。

私にとってジーンとは「良くできた人間」だ。彼は作中で映画しかなかった、映画を撮るか死かだ、と述べているが、映画を作ることについては作中でもその努力の結晶を遺憾なく発揮する。
MEISTERが「何も無い人への映画」だったように私には「映画大好きポンポさん」が同じく何も持って無い人へ向けた映画のように思えた。何も持ってない人が自分の素手で物事を成しに殴り込んでいくようなそんな。元気が出る映画だった。


面白い映画だった!!!!!!!
22:35ぐらいに見終わって速攻書いたのでほぼ一時間弱書いていることになる。最近才能とは、自分が誰に言われなくても勝手に好きでやっていることを指すのだなあと思うようになった。
私は文章を書くことが好きなのだろうか。それとも、自己表現そのものが好きなのだろうか。進んでやっている方は一体どっちなのだろう。
困ったなあ。

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