【#0_卒論連載】電柱と電線について考えて。
2021年度の卒業論文として社会学的な「電柱と電線」についての研究を行いました。このnoteはその研究成果をまとめたものです。
文系学部生の卒業論文の多くはゼミや大学の中に留まり、外に発信されることはほとんどありません。なので、こういったカタチで外部配信をしようと思い、投稿を決めました。
このnoteはその【#0】のはじめに的なものにあたります。内容を見たい方は以下マガジンから【#1-7】をご覧ください。
ざっくりこのnoteについて
このnoteは、卒論note連載の【#0】にあたります。以下のような構成になっています。
なんで「電柱と電線」の卒論を?
この卒論(研究)の目的は?
このnote連載の構成と要旨
では!さっそく。
なぜ「電柱と電線」の卒論を?
「電柱と電線」の研究と聞くと、工学系の研究かなと思う人もいるかもしれません。少なくとも文系の研究分野ではないでしょと思う人が多いと思います。
なので、最初に私がなぜ「電柱と電線」に興味を持ち、どのように研究に落とし込んできたかをざっと紹介させください。
(書いていたら思った以上に長くなってしまったので、研究内容が見たいんだよという方は飛ばしちゃってください🙇♂️)
最初に私が「電柱と電線」に興味をもったのは割と最近で大学一年生の春休み、チュニジアにいた時でした。
お金がなかったのでairbnbを利用したのですが(airbnbは3000円とかで泊まれるし、一人部屋だし、ご飯も出してくれるかもの神サービス)、そこのホストが日本人が泊まりに来るのが初めてだったようで、日本のことについてあれやこれやと聞いてきました。
英語は話せないので、単語で会話していましたが。。
日本や東京のことについて色々話していた流れで、自分が撮った東京の写真を見せていました。そうすると、ある一枚の写真の電柱と電線を指して「なんなんこれは?」と言われたのです。
確かにこの写真は望遠レンズで撮ったので、電線が複雑にからまり合っているように見え、印象的かもしれません。(実際からまってますが、、)
電線を英語でなんと言えばいいのか分からなかったので「イッツ、エレクトリックケーブル」と言いました。
彼は「あー、きたないね日本は」的なことをいって、苦笑いして皿洗いにいってしまいました。
彼は日本の景観があまり気に入らなかったようで。(チュニジアの首都チュニス周辺では基本的には電線が建物から建物へ、沿うように架線されていました。個人的には「そっちもそっちできたねーよ」と思いましたが。)
あぁ、きたないのかこの電柱と電線は。
私はなんとなくこの写真を気に入っていて、それは無意識的に「複雑に絡まり合った電線」と「乱立する電柱」が作り出す景観に魅力を感じていたからかもなのかもしれません。
納得する部分もありつつ、この電柱と電線を魅力的に感じていた私からしたら複雑な気持ちです。
しかし、これがきっかけで「なぜ電柱と電線を魅力的に感じたのか、興味が湧いたのか」そのこと自体が気になり始めました。
このチュニジア人のホストにとってはきたない景観なのに、私はなぜ惹かれてしまうのだろうか。
なんとなく、そんなことに関する「電柱と電線」の研究が出来たらいいなと。
ただ研究したいといってもどうやって研究すればよいのか全くイメージが湧かない。。
このときは、私の学部である社会学系は人と人とが構成する社会が前提にあるものだと思っていたので、モノである「電柱と電線」を研究するってできるのか?といった状態でした。
・・・・・・
そこから一年、私は南後由和先生のゼミに入り「電柱と電線」の研究を進めることになります。
南後先生は社会学を軸に都市や建築、その空間について研究をしている研究者です。
建築は単純にモノとして捉えるのではなく、その建築ができるまでの過程やその後の受容のされ方まで、横断的に社会学的なアプローチをしていると私は認識しています。(ズレてたらすいません)
先生の研究への態度は(勝手ながら)著作である『ひとり空間の都市論』のあとがきの一説によく現れていると思っているので引用させてください。
これまで分けて考えていた「人」と「空間」を分けず、その関係性自体を考えること。
モノはモノと単体で考えがちですが、そのモノもさまざまなモノと関係性を持つことによって存在しています。その関係性に着目すればモノであろうと社会学的なアプローチが可能になる。モノの社会学といったところでしょうか。
私の卒業論文も「電柱と電線」と「他のモノ(人を含め)」と「その関係性」を一つのまとまりとして捉えるようにしています。
(もう一つ重要なモノとして、ゼミで文献輪読したインフラの社会学の先行研究である『ネットワークシティ』という本との出会いもありますが、ここでは割愛。)
「電柱と電線」を単体として扱うのではなく、「電柱と電線」を中心として、その周りにある人やモノの関係性を紐解き、「電柱と電線」の在り方を分析することが、私の卒業論文の「電柱と電線」への社会学的なアプローチになっていきます。
そんなこんなで、かなり長くなってしまいましたが、自分の興味を見つけることから、どのように研究まで落とし込んでいったのかを簡単に書いてきました。
他にもいろんな課題との出会いがありましたが、その話はまた別の機会で。
ながめの前置きが終わったところで、早速具体的な内容を紹介していきます!
この卒論(研究)の目的
この卒業論文での研究の目的を簡潔に表現すると、
「電柱と電線がどのように存在してきたのか」
を明らかにする。
インフラというものは基本的に、道路の下や都市圏から離れた場所、言い換えると見えない場所に設置されることが多いです。
しかし、電柱と電線だけはまるで都市や建築に依存するように、私たちの生活空間にモノとして存在しています。
(ちょっと外に出たら、ありますよね電柱と電線。もしこのnoteが書かれてから何十年も経って読んでいる人がいれば、そんな時代もあったのだと思いながら読んでください。それともまだ残っていますか?)
そんなちょっと特殊なインフラである「電柱と電線」だからこそ、その在り方(人やその他のモノとの関係)に特徴があるはずであり、それを社会学的に明らかにするのが本論文の目的になります。
具体的には「トイレ」「ゴミ置き場」「広告」「街灯」と電柱と電線との関係性の事例を出しながら「電柱と電線」と「その他のモノ」の一連の関係を分析し、「電柱と電線」の在り方を明らかにしていきます。
この卒論連載の構成と要旨
この卒論連載は番外編含む8本のnote分かれており(長くてすいません、、)
前半の3本は先行研究の検討部分の「第1部」
後半の4本は研究部分の「第2部」
番外編
の構成になっています。
あくまでも卒業論文をベースにしたnoteになるので、内容や文体、目次、見出し、掲載の順番は読みやすいよう加筆修正してあります。
以下では、8本のnoteの概要を簡単に紹介していきます。
面白そうだなと思った部分から(だけ)でも自由に読んでください🙇♂️
第1部 先行研究の検討
【#1】インフラとは私たちにとってなんなのか
(社会学的なインフラ)
ここでは、M・カステルやA・ギデンズといった社会学者がどのように「電柱と電線」を含むインフラを捉えてきたのか整理します。
あまり意識に上がらない、社会の「地」であるインフラというモノは私たちにとってどんなモノなのか。
さらには、インフラが単なる社会の「地」だけではなく災害やSNSといったものによって社会の「図」としての浮上している面もあることを確認します。
インフラ観光やハロウィンのスクランブル交差点などは、インフラが社会の「図」として機能している一面でもあったりするのです。
【#2】電柱と電線の基礎知識
(技術的な電柱と電線)
身近にあるけど、意外と知られていないのが電柱と電線。
電柱には何がついているのか、なぜ電線はあんなにたくさん線があるのか、どういう法律や条例があるのか。
あまり知られていない技術的な電柱と電線の側面をまとめた部分です。今回はnoteということもあり電力会社などのHPを引用しながら、この一連の卒論連載に関係することのみ取り扱います。
【#3】電柱と電線論の現在と本研究の範囲
(社会的な電柱と電線)
社会学的に「電柱と電線」と捉えた研究はあまりなく、その数少ない研究である近森高明氏(2017)の論考の整理・検討し、本研究の範囲を設定します。
近森氏は社会におけるモノである「電柱と電線」の特徴を
などといった的確な言葉を与えながら社会学的に説明していて、読んでておもしろいです。
社会学は人についての研究しているイメージがあると思いますが、モノの社会学的な側面をみることもできると感じます。
この章では近森氏の論考を、技術の景観という意味であるテクノスケープという概念とリンクさせながら電柱電線論の現在地を明確にします。
【番外編】なぜ電柱と電線に萌えてしまうのか
instagramで「#電柱」やTwitterで「#いい電線」で検索をして見ると、なんだかグッとくる写真が並んでいます。
電柱と電線はエモい(と思う人もいる)のです。
電柱・電線好きを公言する著名人である文筆家、俳優の石山蓮華氏のTwitterを覗くと電柱と電線の魅力的な写真たちが。
しかし、電柱と電線は美しさを求めて作られたモノではありません。むしろ醜いという言説の方が納得感があります。
なんだって、私たちの生活を支えるインフラなのだから。
にも関わらず、密かに電柱と電線には萌えている人が続出しています。
この番外編では上記のような現象を、テクノスケープの理論やモバイルメディア以降の空間受容の変化、オタクの思想とのリンクなどから社会学的に説明することを試みます。
(本論文の主旨とは若干ずれているので番外編とする。論文では第3章の一部であり、それを加筆・修正したものになる。)
第2部 モノとしての電柱と電線
【#4】新しい物質主義について
第2部となり、この研究の目的である「電柱と電線がどのように存在してきたのか」を具体的な事例から分析していきます。そのために理論的枠組みとして「新しい物質主義」の考え方を整理します。
「新しい物質主義」とは人間とモノの関係性をフラットに考え、人間、非人間(モノ含め)の関係性の分析を行うことを視座した考え方で、少し抽象的な話が多くなります。(実際の事例から読みたい方は、【#5】から読んでください。)
これは冒頭で話した内容ともリンクしています。モノ自体は単体で存在しているように見えますが、その背後には他のモノとの「間」が存在するのです。
「新しい物質主義」もモノを単体で捉えるのではなく、人間を含めたモノの関係の中でさまざまな立ち現れ方すると捉えます。つまり、モノというのは固定的なものではなく、他のモノとの関係性の中で変化していく流動的なものだと考えます。
「電柱と電線」も人間や非人間と流動的な関係を結びながら存在してきました。その関係性を紐解くことで「電柱と電線がどのように存在してきたのか」ということにアクセスできると思っています。
以降、【#5〜6】では「トイレ」「ゴミ置き場」「街灯」「広告」という関係性の事例から、電柱と電線の流動的で重層的な在り方を紐解いていきます。
【#5】電柱は排泄物の受け皿
いよいよ、特定の事例を紹介しながら「電柱と電線がどのように存在してきたのか」を考えていきます。
ここで取り上げるのは、
犬や人間が電柱に「トイレ」をする事例。
電柱の麓が「ゴミ置き場」として利用される事例
なんだか汚いですね、すいません。。
ただ、このような電柱の利用のされ方を、みなさんも見たことあるはずです。
電柱は人間や動物の排泄物を(一時的に)許容する空間でもあり、排泄物を処理するネットワークの一部を構成しているのです。
さらに、それらの関係性が可能になったのは、電柱の配置や形状、素材といった要素(マテリアリティ)が重要になっていきます。
このマテリアリティは「電柱と電線」と他のモノとの関係性を結ぶ重要な媒体となっています。
これらの事例を追いながら、犬や排尿行為、ゴミ処理システムなどの関係性のなかでの「電柱と電線」の在り方を考えていきます。
【#6】街を案内し照らす電柱と電線
【#5】に続いてここでも特定の事例を紹介します。
ここで取り上げるのは、
「広告」を掲載する場所としての事例。
「街灯」を設置する場所としての事例。
お馴染みの光景ですね。
あまりにもお馴染みすぎて、気にも留めなかった人がほとんどの光景なのでないでしょうか。
前の事例とは違い、これらは電柱の管理団体や自治体、地元企業、道、資本との関係性があります。
さらには、ここでは電柱の余白空間、反復性、電線のつらなりといった要素(マテリアリティ)が重要な媒体となり、他のものとの関係性を結びことを可能にしているのです。
【#7】インフラのネットワークへ
【#5〜6】まで見ると「電柱と電線」のマテリアリティはその他のモノとの関係することを可能にし、ある複数のネットワークを同時に構成しながら存在しているのことがわかってきます。
本来、電柱と電線は「電力と通信の流通を担うインフラ」でしたが、それ以外の複数のネットワークを重層的に持っているのです。
そういった電柱と電線を「「流動性のための固定性」を代理する固定性」という言葉で説明することを試みます。
さらには、私たちの生活を下支えしているインフラは単体で存在しているのではなく、インフラ自体が巨大なネットワークを構成しながら存在しているのではないかという、この研究の発展可能性も示し、おわりにします。
【#0】にも関わらず、長文になってしまいました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。ぜひ、興味のある章から読んでいただけると嬉しく思います。
最後に宣伝だけ、、!
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