【#1_卒論連載】インフラとは私たちにとってなんなのか
要旨
本論文が主題としているのは電柱と電線であるが、それを内包するインフラストラクチャーという概念を整理する。これまでのインフラストラクチャーの議論を引用しながら、都市空間の「図」に対してインフラストラクチャーは「地」として存在していることを確認する。しかし、その「地」と「図」は反転することがあり、インフラ自体が「図」として格差や災害を起こす可能性、情報社会の中では消費されることがあることを明示し、電柱と電線の議論に接続させる。
1-1 インフラとは
電柱と電線の話に入る前に、まず都市におけるインフラストラクチャー(以下インフラ)についての先行研究を整理し本論文において着目するポイントを明確にする。
インフラという言葉は日本語で下部構造という意味を持っている。社会や経済、政治、文化などの上部構造(スープラストラクチャ)であり、それを支える下部構造がインフラである。さらに細かく言うと、エネルギーを供給する電力施設やガス施設、水を供給と処分を担う上下水道、情報伝達を行う通信線など現代の生活や経済活動に必須のインフラをライフラインという。
しかし、上記以外にもインフラが指し示す意味は広い。例えば、スマートフォンは現代の生活を生きるなかで必須なものであり、インフラと言えるし、コンビニなどもそのように言えるだろう。
インフラという言葉には社会生活を支える下部構造としてかなり広い意味があると言える。尾島(1983)はインフラを「長期にわたって変化のない都市又は国土の基盤となる施設」としている。本論文においてはさしあたり上下水道や電気、ガスを供給する都市供給処理施設、街路や都市交通を「インフラ」と定義し研究を進めていくこととする。
1-2 社会的なモノとしてのインフラ論
1-2-1 近代社会とインフラ
1-1でも見たようにインフラは社会の基盤(下部構造)という意味で社会での生活を送るうえでなくてはならないものである。
資本主義体制の元にある近代社会の都市では、保健・衛生、教育、住宅などの資本によって生産されづらいものや、生命の維持に必須なモノを国家が介入し、提供するようになる。
M・カステルはそういったものの消費を「集合的消費」という言葉で定義づけている。「集合的消費」とは「個人的消費」とは区別され、市場ではなく国家によって与えられる財やサービスであり、インフラもそれらに当てはまる。
上記のように近代都市ではそういった生命を維持する上で重要なモノ(上下水道、ガス、電気などといったインフラも含まれる)は現在においても一部民営化されつつあるが、基本的に国家が介入し提供している。
田中大介(2017)はA・ギデンズやM・カステルの議論を引きながら、前近代の地域社会では諸問題をその地域社会共同で解決していたのに対して、近代以降の都市社会ではそれらをインフラが代わりに解決するようになったとしている。
多木浩二(1994)も都市は近代化する中で自然のエコロジーと断絶し、それによって生じた様々な問題に対して、その問題を解決するために人工的な機構としてインフラを自らの中に組み込む必要が出てきたと指摘している。
上記のような国家の介入による近代都市のインフラの整備は、公的な機関に諸問題の解決が一任されていると言い換えることができるだろう。それは市民社会がインフラの構造や知識を知らなくともその恩恵を受けられるような状況を作り出している。
A・ギデンズは、そういった市民が点検できないような高度な専門家知識の体系であるインフラなどを「専門家システム」と呼び、漠然とした不完全な理解に基づきそれを信頼していることによって成り立っていると指摘した。
まさに市民は公的な機関にお任せをすることでインフラという社会資本の恩恵を受けている状況にあるのだ。また、ギデンズは「専門家システム」のメカニズムを「脱-埋め込み」と呼び、それまでローカルな共同体に埋め込まれていた問題処理システム(儀式や慣例)がそこから切り離されどんな場所や空間でも埋め込めることができるシステムだとも指摘している。
1-2-2 「地」から「図」への反転
前項でみたように、市民にとってインフラはどのように動いているかわからない専門家システムであり、それ以前に動いていることすら意識しないシステムである。田中(2017)はそのようなインフラを
と指摘している。しかし、続けて
とも指摘している。普段は「地」としてあるインフラも災害やテロ、戦争などによってインフラが停止すると「図」として浮かび上がることもあるということだ。
インフラが災害などによって「図」として浮上したタイミングの一つとしてあげられるのは東日本大震災などの災害時であろう。
例えば、東京の浄水場で基準値以上の放射線が出たことによって不可視化されていた水道インフラが可視化されたこと。一度可視化された水道インフラは再び不可視になるのではなく、市民や企業などの介入などが起こり、水道インフラに対する人々の漠然とした不完全な理解に基づいた「信頼」に揺るぎを引き起こした(岩舘 2016)。
一方で、インフラは単に下部構造だけの面だけではなく、巨大な構築物から物的なモニュメント性をもつ一面も持ち合わせた両義性があり、インフラそのものがもつ物性が「図」として認識されているという指摘もある(伊藤毅 2010)。
例えば、東京タワーなどが代表される電波塔は単なる電波を発信するインフラという面だけではなく、物的な巨大性から都市の中での様々な意味を持ったシンボルとして存在していたこともあった(松山 2021: 169-186)。
また、田中(2017)も災害などでなくとも、都市自体が情報技術などにより複雑化し全体的秩序が俯瞰できなくなり、どうにか「見えるもの」としての物的なインフラが「図」として前景化しはじめていることを指摘する。
さらには、近森高明(2021)は現代における都市論の閉塞感を払拭するために、モノを都市の全体性を秩序づけるものとしてモノから都市を語らせるといった「都市論の物質論的転回」が必要であると指摘し、そこにおいて都市の物的なマテリアルを持つインフラを「図」として着目することが重要だとした見方をしている。(これは#3でも詳しく説明する。)
1-2-3 「図」としてのインフラ
ここでは前述したインフラが「図」として立ち現れている側面を詳しく確認する。
インフラ観光や渋谷のハロウィンといった現象は実はインフラが「図」として立ち現れていることとリンクしている。
田中(2018)は都市空間と情報空間が重なっている現代社会において、インフラがイベントとして、もしくは情報空間では味わえない体験を支えるものとしてあると指摘する。
そこで上げられる例は職業体験ができるキッザニアや鉄道博物館、工場夜景などを代表するような「インフラ観光」など、広範囲の意味を含んだインフラを体験することができるものたちである。
田中によるとその背景にはモバイルメディアやSNSの登場によって自身の他愛のない生活が記録・伝達・共有され、自身の生活そのものを再帰的にモニタリングすることが可能になったことがあるという。SNSを通して日常の生活を切り取り、「〇〇する」ではなく、「「〇〇」をやっています」というように、生活の行為自体の意味を振り返り、その結果を推し量るようになった。
そのような展開になかで都市空間はどのような意味を持っているのか、田中の指摘を引用しよう。
物理的な都市空間はある種のスケールを持ったものとして体験されている。
情報空間と都市空間の円環状の関係性の中、インフラは「図」として体験され、さらに「地」としてその体験を下支えするためにスケールを拡大させ、再び「図」として体験を作り出していく流れがあるということができるかもしれない。
南後由和(2016)の渋谷のスクランブル交差点で行われるハロウィンの論考からも上記のような「図」としてのインフラの様相が捉えられる。南後は渋谷のスクランブル交差点を「群集の「量」を許容する空間的「規模」」(南後 2016: 131)を持ち合わせているという。
そのような特徴を持つスクランブル交差点はハロウィン時に、情報空間では担保されないスケールを体験することができ、さらにその体験をSNS上にアップする場所として立ち現れる。
そういった様相を「物理空間と情報空間を横断しながら展開されている。「物理空間での集団的体験の共有」と「情報空間での集団的体験の共有」が重層性を帯びながらループしているのだ。」(南後 2016: 141)と指摘している。
スクランブル交差点という巨大インフラの群集の「量」を許容する空間的「規模」は、「図」して体験され、SNS上で体験としてアップされていき、その群衆の「量」をさらに拡大させていくループが行われているのである。
1-2-4 インフラの格差
1-1でみたように、インフラは資本主義体制のなかで生活や労働を維持するために国家から共有されているものであった。そういったインフラは常にアクセスの平等性が必要になる。インフラへのアクセスの格差は生命維持に直接影響を及ぼしてしまうからだ。そのために国家が資本主義体制の中に介入したのであった。
しかし、近年のインフラ研究の中では、グローバル化によって生み出された地域間の格差は鉄道や道路、港湾、空港、上下水道、通信施設などのインフラの整備と密接につながっていると指摘がある(平田 2021: 16)。インフラはその配分によって不平等を生み出す。それは必ずしも均等に配分されるものではなく、その配分に市場や政治といったモノが複合的に絡まり合いながら権力作用を帯びて存在しているのである。