【#7_卒論連載】インフラのネットワークへ
要約
ここまでの節の事例を横断してみて取られる電柱と電線のあり方を整理する。「とりあえずの積み重ね」はここまで見てきたように単なる仮設として積み重ねてきたのではなく、都市の諸要素と関わりを持ちながら必然的に積み重なってきたように感じる。
7-1 余白空間の商品化と電柱と電線の商品化
まずは、電柱広告や共架サービスによる電柱の商品化も整理する。
電柱には電線を支持するという大義があった。上部空間に電線あるという構造上、人からある程度の距離が必要であり、身体のスケールを少し超えたスケール感を電柱はもっている。それは電柱に地面と電線の間の電柱の余白空間、通信線と電力線の間の余白空間を作り出すのだ。
現代都市の特徴の一つは、原広司が指摘した「均質空間」やレム・コールハースが指摘した「ジェネリックシティ」という言葉たちに代表される、空間がローカルな文脈から切り離され、均質化、ジェネリック化していることである。
ローカルな文脈から浮遊した空間は資本主義の市場のもと、様々な加工され他の空間との差異を作り出すことに必死になっていく。文化や歴史は否応なく相対化され選択されるものとして、自由に引用され、市場における空間の価値を高めるのだ。
そういった流れに沿うように、電柱の余白空間もまた市場の前において商品化されていた。
しかし、電柱は土地のような空間と違い、明瞭なマテリアリティとして配置やカタチをもっている。そのカタチの制限のなかで広告媒体や共架サービスとしは資本主義の市場に埋め込められ、そのスケールを巨大化していったのである。
空間の均質化によるもう一つの展開もある。空間の差異化戦略のなかで、電柱と電線自身の存在すらも変化させられていくことだ。つまり、電柱と電線自体が空間の商品価値を減衰、増加させているというモノとして捉えられるものとされていくことを可能にしていったのだ。それはローカルなレベルで上部空間から電柱と電線を排除しようとする流れ、一方であえて電柱と電線を立てようという動きがある。
電柱と電線を排除しようとする流れは小江戸川越の例を紹介したい。川越の川越一番街商店街では「蔵造りの町並み」という歴史を商品として観光ビジネスを発展させてきた。そのなかで電柱と電線は「街の魅力を高める」という大義名分のもと地下へと姿を消していった。
電柱と電線を立てようという動きはお台場一丁目商店街の例がある。東京の臨海地域は埋立地であり、まさに均質空間を代表するような場所である(若林 2005)。国際展示場を代表とするローカルな土地と繋がりを持たない箱型の施設が大量に存在する臨海地域はその均質さゆえに、差異化の戦略によって空間の価値を作り出している。お台場一丁目商店街は昭和30年代の下町という文化を引用した空間である。昭和30年代的な記号を盛り込み他の空間との差異を作り出しているのだ。もちろん、本物ではなく偽物の木製の電柱っぽい形状をしたマテリアルが設置されている。昭和30年代的な記号をもつものとして現代の空間の差異化のゲームに、均質空間それ自体を下支えしているインフラでさえ「図」として組み込まれているのである。
現代の空間の均質化は、すべてのモノを相対化させ、その中から市場で価値が出るものを取捨選択していく。その中では、文化や歴史と同様にインフラである電柱と電線の存在も取捨選択されているのであろう。
7-2 「流動性のための固定性」を代理する固定性
【#4】で確認した藤村の指摘は都市空間が「物理空間」と「情報空間」の二層化しているという指摘であった。都市空間に浮遊するスマートフォンに接続された人間はどこにいても無線で空間時間を超え、情報のやり取りが可能になり、流動性の高い生活を可能にした。
しかし、それを可能にしているのは物的なマテリアリティに固定されている、通信線や電力線なのである。スマートフォンの電波は都市空間で点として存在している基地局に繋がっている。基地局から物的な電線をつたい交換局にそして、ほかの基地局へと接続されている。さらには、家や仕事場に付くと私達はスマートフォンを電源ケーブルに接続し、発電所から変電所まで送電されそこから電柱などを通り送電された電力によって次の情報空間との接続に備えさせる。表層的には私達の生活は物理的な制約はほとんどないがゆえに流動化しているその都市の裏には、流動性を担保するために通信線や電力線がそれぞれの基地局や発電所と物的な接続を持つために都市空間に固定されている(可視不可視問わず)。流動性の裏には常に物的な固定性という層が潜んでいるのだ。
原口剛(2021)はD・ハーヴェイを引きながら、「時間による空間の絶滅」はそれと矛盾するカタチで大量の物的なインフラを創出し、それが加速するにつれてインフラは巨大化、「固定性と流動性との矛盾を累進的に拡大」させていると指摘している(原口 2021: 176-177)。
原口の指摘は電柱と電線にも当てはまるだろう。巨大な発電所を都市から離れた後背地に設置し、電力を効率的に送るために巨大な鉄塔から変電所へ、そこから高電圧帯と低電圧帯を同時に電柱に架線し、すべての電力を必要とする空間に接続されている。通信技術も並行し、電柱と電線はモノとしてネットワークとして巨大化を果たしてきた。電柱と電線は現代都市の「流動性のための固定性」なのである。
しかし、電柱だけに限っていうと、さらにもうひと局面がある。それは「「流動性のための固定性」を代理する固定性」である。
都市空間の中には電柱と電線のように「流動性のための固定性」を持ち合わせた様々なモノが可視不可視問わず存在している。交通システムを考えてみてほしい。交通システムは人間の移動速度を格段に上げ、人間の生活の流動性を高めた。その交通システムを下支えしているモノはなんであろうか。舗装された道路、信号、標識、街灯、横断歩道、高速道路、ガードレール。ガソリンスタンド、駐車場、パーキングエリア、踏切、橋などなど、数え切れない固定された物的なモノがその流動性を支えているのである。
では、電柱の「「流動性のための固定性」を代理する固定性」とはなんであろうか。【#7】で説明した街灯の例で説明しよう。
街灯は夜間の移動の安全を高めるものであり、それは夜間の流動性を高めるものであった。電柱と電線の「反復とつらなり」に呼応することによって光は公安用照明としての機能をもち、線として道を照らすことができたのである。
上記からもわかるように街灯もまた夜間の「流動性のための固定性」を必要としている。光が線として固定されることによって、その線を夜間でも人間は安全に利用することができるからだ。ここにおいて上部空間に固定性をもったマテリアリティを持つ電柱は街灯に「流動性のための固定性」を代理的に提供しているのである。そこにおいて、街灯を設置された電柱は「「流動性のための固定性」を代理する固定性」を持つことになるのである。
上記のことはゴミ収集所の事例にも当てはまる。ゴミ処理システムは個人からゴミの責任を国家が受け取り一律に処理するシステムであった。つまり、ゴミをシステマティックに流動させ、衛生環境を守っているのである。そういった、ゴミの流動性を担保する固定性はなんであろうか。それは、ゴミ箱、焼却炉、ゴミ収集車(それを支える交通システムも)、リサイクル場、埋立地、そしてゴミ収集所などであろう。ゴミのカタチを変形させながら効率よく埋立地まで流していく、その流れの線上には固定された物的な点があるのである。
ゴミ収集所は地域からゴミを集め滞留させ、効率よくゴミ収集車へ受け渡すための点が必要であり、それは、集め滞留させるための固定性が必要になる。「流動性のための固定性」である。これを受け入れるのが上部空間に固定性をもったマテリアリティを持つ電柱であった。ここでもまた、ゴミ収集所を設置された電柱は「「流動性のための固定性」を代理する固定性」を持つことになる。
電柱自身の「流動性のための固定性」は一箇所に点としてあるのではなく、大量に街の中に反復され、日本の都市空間に固定されている。そういったマテリアリティは、他の「流動性のための固定性」との出会いによって、電柱自体の余白空間をその「流動性のための固定性」を代理しはじめるのである。
電柱は電線含めこの現代都市の流動性のための固定性を一本のマテリアリティの空間のなかで複数のレイヤーを持ち合わせながら存在している。その固定性を持った外観はあたかも「とりあえずの積み重ね」として捉えられる。しかしその言葉に隠れた部分では、現代都市の流動性と固定性の矛盾が物的なカタチとして特異な外観を作り出すことになったのではないだろうか。
7-3 インフラ(インフラa-インフラb-インフラc-…)へ
7-2では電柱が他のインフラのネットワークと接続され、「「流動性のための固定性」を代理する固定性」として立ち現れていることを示した。これが意味することは、インフラが完全にインフラの機能ごとに別れたネットワークに存在するのではなく、インフラ自体も他のインフラのネットワークと重なり合いながら存在しているということではないだろうか。
電柱と電線は電力と通信の流通を担うインフラであった。しかし、これまで確認したように、特に電柱はゴミ処理システムや交通システムといったインフラと関わりを持ち、それらを下支えしている一面もある。現代社会の下部構造と言われるインフラ、それは時より電柱と接続され、そのインフラを完成させているのである。そういった電柱の諸相はインフラがインフラの機能ごとに分離して都市にあるわけではなく、インフラの構造物が他のインフラを支え、支えられているという関係にあることを示している。
上記のような関係が可能になるのもインフラの固定性からであろう。インフラは常に(可視不可視問わず)物的なマテリアリティを持って都市空間の一部を占めている。それらはインフラであると同時に、常にインフラを支えるインフラ、言い換えれば「インフラのインフラ」になり得るし、逆に「インフラのインフラ」を必要とすることもある。
【#1】で確認したように、インフラは我々の生活の基盤であり、我々の生活を規定するものであった。しかし、そのインフラは他のインフラを基盤とし、基盤にされて、他のインフラによって規定され、規定しているのではないだろうか。つまり、我々の社会の基盤には複数のインフラが相互に依存し合い、巨大なネットワークを構成されているのかもしれない(例えば、インフラ(インフラa-インフラb-インフラc-…)のように)。そのことは、一つのインフラの変化は他のインフラへと波及し、その巨大なインフラネットワーク全体を変化させてくことも意味するだろう。そういったインフラ概念が可能であるとしたら、無電柱化という流れは近森の指摘する「公共性の語り」と「趣味性の語り」を乗り越えて、インフラ全体をも含んだ議論が必要になるのではないだろうか。
ここでは上記のインフラ概念については本論文の発展可能性までに示しておきたい。そこには電柱と電線以外のインフラについての詳細なリサーチが必要であり、インフラそのものの概念についてもより詳細な整理が必要である。しかし、本論文の分析のような、そのインフラの物的なマテリアリティと他のインフラの物的なマテリアリティがどのようにネットワークを構成しているのかという視座は有効であろう。どれだけ我々の生活が空間と時間を超え流動化し続けようと、その基盤にはインフラという地球上の実空間を占めるマテリアリティが存在するのだから。
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では、また。