人見知りについての再定義
このたび「人見知り」に関しての定義を改めました
人見知りとは「はじめによくよくひとを吟味すること」
とします
つまり「わたしは人見知りします」という宣言の意味は「あなたを充分観察し吟味してからあなたへの態度・処遇の決定をします」という意味であり、
初動を間違えないため、ひいては今後の潤滑な関係構築のために極めて有効な手立てだと、
そう思うに至ったものであります
かく言う私はあつかましさが人の形をしたような存在でありますので人見知りとはとても自称できません
当然、私も状況によっては緊張することがありますが、いわゆる人見知りとはそういうものではないのでしょう
ならばどういうものなのか?どう捉えたらいいのか?を考えた結果、上記のような定義となった次第であります
なぜ「再定義」するに至ったかですが、
「私は人見知りで〜」と告げられることはとても多いのに、
この世に存在するあえて筆するまでもないあの「人見知り」のイメージを持つ人と私は出会ったことがないと常々感じていたことが理由です
人見知りだと言いつつも私の話を聞いてくれて私にも話をしてくれて、会話のテンポは人それぞれだとしても、初対面だからといって会話にならないことなどあった試しがないし、意思の疎通がはかれないことなんて1度もなかった
とは言えこれは「え?本当に人見知りなの?そんな感じぜんぜんしないよ?」と言ってみたところで彼(彼女)の中には「自分は人見知りである」という意識は現存し続けるため全く無意味で、何の解決もしないことだしそもそも何を解決しなければいけない話でもないのです
なぜなら違っているのはお互いが持つ感覚だから
感覚なんて変わることはあっても変えようなどない
だから当人が人見知りであると感じるならそうか人見知りなんだーと思うだけなのです
しかしそこでいつも思うのは、
人見知りであることの後ろめたさみたいなもの
あつかましい私には本当のことはわからない
でも人見知りであることに申し訳なさそうにしてる、ように感じる
そんなこと感じる必要全くないのになぁ、と思うのです
私は困らせられたことなどないのになー、と
なので、再定義するのです
人見知りとは「はじめによくよくひとを吟味すること」
とするのです
繰り返しになりますが、
人見知りとは、
関係の初動を間違えないため、ひいては今後の潤滑な関係構築のために極めて有効な手立てだと、
生きるためのノウハウだと、
自分に合う処世術のひとつだと、
そう定義し直すものであります
シン人見知りってことにでもしておくので
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