気づきは電撃でないといけない
頭でわかったことは本当の意味でわかってはいない。
成功してみて、失敗してみて、初めてわかったことになる。
学生時代はそういうことを毎日実感していた。
数学の授業で「へぇーなるほど!わかったわかった!」と練習問題を解いてみても「…あれ?」とかつまずくやつ。
部活とかでも「コツをつかんだ!」と思ってやってみても、そうそう上手くは再現できないやつ。
大人になるとそういう機会はものすごく減るな。
少なくとも新しいわかる経験が受動的なものでなくなることは間違いない。
わかるということは
体験でないといけない。
わかるためには気づきが必要。
気づきとはショックだと思う。
電撃みたいな。
おもしろいのは気づきがあったからといってそれが絶対正解とも限らないということ。
「その時は正解」とか「ぜんぜん違ってた」とか、そういうこともある。
でも気づきがたくさんあるほうが「わかる」に近くなることは間違いない。
その気づきをたとえ今使えなくても違う機会に使える可能性がある。
矛盾するようだが、気づきのためにはわからないといけない。
腑に落ちて膝を叩くほどわからなければいけないかというとそうでもない。
今はわからないとわかる、それでもいいのかもしれない。
いつか来る気づきのために、
気づくことができるために、
わかることわからないことを蓄積しておかないといけない。
何もないところにシナプスは繋がらないから。
うっすら気づいてたことは自覚か再認識なので気づきと言えない。
はっと閃く感じ以上の強さで気づきが欲しい。
電撃レベルになると気づいた時のことを忘れない。
やはり気づきは身体で感じる電撃でないといけない。