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ソーダ割りの永遠

「カリエスの姉」という響きが好きだった

それがとても上品な響きに感じられたのは、それを言う先生が上品だったからだと今ではわかる



昔は先生も煙草を吸われていてね、とレッスンに来ていたお姉さまたちに聞いたときはとても驚いた
細い煙草をひとくちふたくちだけ吸って消すの
それがとてもおいしそうでね、素敵だったのよ

私はまだ子供だったから臭くて野暮で粗野でオジサンな煙草が大嫌いだったけれど、
想像するそのシーンがあまりに素敵で優雅で上品だったので
その日この世の全ての煙草を許した



先生はいつもロングスカートをはいていた
どのスカートの長さも決まって床まであるので足はつま先すら見たことがない

トップスは常に襟付きで長袖のブラウス
中でもスタンドカラーで金色のブラウスは深みのある光沢が素晴らしく、
豊かなドレープがまるで中世ヨーロッパ貴族のようだったので特に印象に残っている

髪はほどいたらお尻くらいまであるといつか言っていた
その長い髪はいつも頭の高い位置で美しいシニヨンにされていて、
私にとって上品の象徴だった

先生は背が高くやせ細っていて色が白かった、
とても身体が弱かった、
メイドさんが5人いるようなお屋敷に生まれ育った、
有名女学院に通われていた、
4姉妹のうちの三女だった、
ピアニストだった、
とにかくどこを取っても上品、エレガントとしか形容できないほどだった



先生の家には手入れされた美しい植物がたくさんあった
何でも自分で研究してみないと納得しない先生らしく、肥料も長年改良を重ねた自家製だった
植物を上手に育てるコツを尋ねると、
育てたりしないの ただ待つだけなのよ
とほほ笑んだ



待つといえば、先生にはよく待たされた
レッスンの時間にお宅を訪ねインターホンを押すがまずそこで3分くらい返答を待つ
今出ます、とインターホン越しに言われてからまた3分くらい、長い時は10分くらい待つ
家が広いからではない 体が弱いから急な動きができないためだ
なのでレッスンも長くて30分、短いと15分くらいのものだった

その数十分に私の永遠はあった

後悔、よろこび、くやしさ、面白さ、つらさ、楽しさ、悲しさ、
音、色、肉体、イメージ、思考、感覚、研究、修練、哲学、
没頭、絶望、客観、自己、枯渇、充足、俯瞰、フロー、超越、

それは短く集中的に濃密な時間だった
今の人生はまるであの時の永遠をソーダで薄めてのばしたもののようではないか



先生夫婦にお子さんはいなかった
妊娠したものの出産には至らなかったとうわさに聞いたことがあるが真偽はわからない
先生は私を養子に欲しがっていたらしい
私が他の生徒さんに比べてひとりだけ10歳くらい年下だったからだろうか
母との間で私を先生の養子にする話し合いが持たれていたらしい
そのほうが私にとっては幸せかもしれないと真剣に悩んだ、と母が後に言っていた
もし小学生で養子にもらわれていたら私は今頃ピアニストになっていただろうか
床にするほど長いロングスカートをはき髪を美しいシニヨンに巻いた上品な女性になっていただろうか



4人姉妹の長女である先生のあの「カリエスの姉」にお会いしたことがある
私が高校生の頃だ
姉は子供のころから脊髄カリエスを患っていてね、
父も母も私たちみんなとても心配したのよ
と170cmある長身の先生は背をかがめお姉さんをいたわりながら言った
背中が大きく曲がり先生の半分ほどしか身長のないお姉さんは
穏やかにほほ笑んでいた


そのときの光景はまるでひとつの宗教画のようだった
淡く清らかに輝き、静かで暖かな荘厳だった
その光景とともに絶対的な納得が強くこころに焼き付いている
一生を世俗から隔離され美しい箱庭で上品で裕福な慈悲深い人たちに守られ大人になった病弱な女性は純粋を濁らせることなく美しいまま生きた天使になるのだな、と納得した
あの日から何十年も経つがあれほどに天使を体現している人に遭遇したことはない


私が大学生のころ、先生は体調が優れずレッスンをやめた
それと同時に私がピアノを練習することもなくなった
ご夫婦で豪華なホテルのような完全介護付きのホームへ入り、
何年か経ち、チェリストだった先生の旦那様が亡くなり、追って先生も亡くなった
どういうわけかホームに入ってからの先生のことは覚えていない
何度か会いにも行ったしお葬式にも参列したのに

お葬式の日が今日みたいに暑い日だったことだけを、広がる青い空だけをただ覚えている


私は上品な人間には育たなかった
他のお姉さまたちのように音大にもいかなかったしピアノを弾く趣味すらも育たなかった
先生は残念に思っているだろうか
それとも
育てたりしないの ただ待つだけなのよ
と言うだろうか



先生はピアニストであったのに、ピアノの先生であったのに、
生徒に自分がピアノを弾くところを聴かせることがなかった
指導の中でほんのワンフレーズを弾いてみせることがあるのみだった
私は先生のピアノを聴いてみたいと言ったことがある
すると
それはダメなのよ
と言った
影響してしまうからダメなのよ
これから練習する曲はどんな有名でどんなに上手なピアニストであっても聴いたらダメよ
楽譜を読んで、考えて、自分の中から作らなければダメなのよ
耳から覚えることは真似になってしまう、それは早いけれどダメなのよ



私が先生から学んだことは何だったのか
私にとって先生とはなんだったのか
先生は私を育てたりはしなかったのか


あの時の永遠をソーダで薄めてのばしたような人生を
あの時の永遠を想いながら私は今日も生きてる

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