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映画ログ『魔女がいっぱい』

 これは… ロアルド・ダール原作だから映画として成立しているということで良いだろうか…?鑑賞終了後から、胸騒ぎが止まらない。

 これは、誰に向けて何を伝えようとしたのだろうか。

 たしかに親玉であるグランド・ウィッチは冷徹で残酷な魔女だ。彼女が罪なき子供達に対して行ってきたことは、決して許されることではない。だから、彼女が少年たちから痛快な仕返しを受けるところまではよかった。

 ただその前後で彼らが「魔女」全部を1つに束ね、攻撃を仕掛けていったことはとんでもなく間違っていたように思う。それはまさに15C~18Cにかけて西洋で大流行した 魔女狩り そのものではないか。

 映画の中では、一切彼女たちが魔女となった経緯は描かれていなかった。また、グランド・ウィッチ以外の魔女は個性はなく、直接子供を消す行為に手を染めてはいなかった。

 つまり、グランド・ウィッチ以外の魔女たちは本当に仕返しを受けるべき存在だったのか、と考えずにはいられなかったのである。

 電話帳に名前のあった人物全員を、「魔女」と決めつけ攻撃をする。そもそも 魔女=悪い存在 という理論自体正しいのかもわからない。それを子供達に斡旋するストーリーはいかがなものか。

 映画の内容について、正しい・正しくないと語るのは浅はかであると分かっていながらも、児童文学作品であるということ、そして多様性の容認やコンプライアンスへの監視の目が厳しい今日の状況を踏まえると、どうしてこの作品を映画化したのか、その意図を知りたいと思った。

 果たしてその意図が、納得のいくものかは別だが。


 どうやら、魔女たちの手先の指が3本しかない設定となっているが、この描写は手の先天異常である「欠指症」を連想させ、「同じような手を持つ子どもを含め、腕や手足に違いを持つ人たちの気持ちを傷つける」として、本作公開後に身体障害者や国際パラリンピック委員会などから批判を受けたという。

 制作会社であるワーナー・ブラザースは直ちに謝罪声明を発表し、「原作に描かれている『猫のような鋭い爪』を、この映画のために再解釈してデザインしたが、決して身体的障害を持つ人を表現するつもりではなかった」と釈明している。


 1983年に書かれた「児童文学」である本作を、本当に映像化する必要があったのか。それほどまでに伝えたいメッセージがあったのか。

 主演であるアン・ハサウェイを筆頭にキャストもセットも豪華で美しかっただけに、この後味の悪さはいつまでも後を引きそうである。

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