”性別”と言う概念
近年、「性的マイノリティ」や「LGBTQ」などの言葉によく触れるようになった。大学の授業で取り扱われたり、普通に生活をしている中でも耳にしたりすることがある。今まではなかったことにされていたような不遇な扱いを受けていた人たちが、明るみに出て、注目され始め、マジョリティでも彼らのことを理解しようと努めている人がいる。
”性別”って何なんだろう
LGBTQについて調べたり、Twitterでタイムラインに流れてくる情報を見ていると、たまにそういうことを考える。いままで書類を書くとき、「女・男」の欄に○を書き込まなければいけなかった。女の子は女の子の遊び、男の子は男の子の遊びをすることが勧められた。女の子には女の子の制服、男の子には男の子の制服があった。でも、性のことを調べれば調べるほど、その2つで物事を括っている世の中がどんどんおかしく見えてくる。
そして興味深いのが、LGBTQと呼ばれる人たちにも、一人ひとりに性のグラデーションがあることだ。
例えばバイセクシュアルの男性がいたとする。
しかし、この人が”バイセクシュアル”とは言え、5:5の比率で女性と男性が恋愛対象として好きなのかどうか、というのはその人にしか分からない。
もしかすると、3:7でどちらかというと男性の方が気になりやすいのかもしれないし、9:1という、極めてヘテロセクシュアルに近いバイセクシュアルなのかもしれない。
例としてバイセクシュアルを挙げたが、これはバイに限った話ではない。
別の例を挙げると、ヘテロセクシュアルの男性がいたとしても、その人が必ず女性(異性)と性行為をしたいとは限らない、ということもあるだろう。反対に、女性を心から愛することはできないが、女性と性行為はしたいという人ももちろんいるだろう。
ここまで”性の多様さ”を知ると、いわゆる世間一般がどれほど”男”と”女”だけに縛られているのかがよく分かる。
自分の性別について考えてみた
私は幼稚園のとき、男の子の友達が多かった。年少から年長のことを順番に思い出しても、よく覚えているのは男の子と遊んだ記憶だ。外に出て体を動かすのではなく、室内遊びが好きな子とよく一緒にいた。
小学校の時もそうだった。低学年ごろ、好きな男の子はいたが、”女の子らしさ”を求められるのはすごく苦手だった。
令和になった今でも男女の役割の差がはっきり分かれている田舎の地域出身だったこともあり、子供の頃はよくおばあちゃんによく「女の子がそんな股はちかって(方言で股をひらくという意味)座ったらあかんよ」と言われたし、中学生になってからはおじいちゃんに「女の子やから、大学に行って好きなことしてもいいと思う」などと言われたことがある。
大学に行って好きなことをしてもいい、と言ってくれたのは、おじいちゃんなりの優しさでもあっただろう。しかし、その言葉には暗に「結局、結婚して家庭に入ったら大学でやったことは関係なくなる」という意味が含まれている。実際、この時に限らず、こういうことを何度も言われたことがある。
私はそれがとても嫌だった。
つまり私は、恋愛対象はほぼ男性だが(とても魅力的であれば女性を好きになることもある)、社会の中で女性の役割を求められることがすごく苦しい。
このことに関しては、嫌だと思うことはきりがないほど挙げられるのでまた別の機会に書こうと思うが、とにかく「女性はこうだから」と言われるのがものすごく嫌なのだ。
幸い、高校から今にかけて、それを理解してくれる人に何人か出会えた、と思っている。
社会を本当の意味で”多様”に
今の日本の社会は、「多様化」などとうたっている政治家はいても、本当の意味で多様になっていない。性についても、そのほかについてもだ。
本当の意味での多様化を実現するのはほぼ不可能に近い。しかし、それが多様化を諦める理由にはならない。
少しずつでいいから、世界が変わっていけばいいのにな、と毎日思っている。
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