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#16 記憶 (2)
― 人間がそんなに罪深いものだと考えたくない...…
ー それはお前さんの勝手だが……一体正しい人間なんか居るのかね……みんな自分でそう思っているだけじゃねぇのか...…
ー 恐ろしい事を...…
ー ハハハ...…人間ッて奴ァ、自分に都合の悪いことは忘れちまって、都合のいい嘘を本当だと思いこめるようにできてるらしいぜ...…その方が楽だからね……ハハハハ
後年カウンセラーとしてキャリアを重ねるうえで、重要な2つの教訓を得ることとなった過去のあるエピソードと第一の教訓について述べ、さらにもうひとつの教訓が人の「記憶」に関係するものであること、エピソードを読んだ後ではそれは少し衝撃的な内容になるかもしれないことをあらかじめお断りした、というところまでが前回の内容である。
そこでまず、面倒でもどうかもう一度前回のエピソード部分を読んでいただければと思う(教訓(1))。エピソードの内容については、話を分かりやすく描写するために多少表現を柔軟に加えたところもあるが、細かい部分まですべて実際起きた出来事である。
ただ、ひとつの点を除いては。
実はこのエピソード、私自身が体験したことではなかったのである。実際は、出張を共にした私の同僚が体験した出来事であり、私は当の外国人ビジネスマンとはひと言も言葉を交わしてはいなかったのである。私は帰国直後その同僚から詳しい話を聞きながらさまざま意見を交わしただけだったのだ。
機内では、私は同僚とは数列離れた席に座っており、同僚と隣のくだんの外国人ビジネスマンとの楽しげな会話の様子を後ろの席から時折目にすることはあったし、同僚が私のことを話題にしたのか一度だけその外国人が私を振り返り笑みで挨拶を交わしたが、私との接点はただそれだけであった。
わざわざ読んでいただいた方は、「なんだ、話を盛っただけの作り話ではないか」と呆れられるであろう。だが問題は、当の本人である私がいつの頃からかはっきりしないにせよ、間違いなく自分が実際に体験したこととして二十年以上もの間、何ら疑うこともなく純粋に信じていたという点である。驚くべきは、会話の内容や外国ビジネスマンの表情や口調、会話の最中に胸を去来した様々な思いまでありありと自分が体験したこととしてそのリアルな真実性にいっさい疑いを抱かずにきたことである。しかもさらに奇妙なことは、自分が体験したものではないことをある時突如として、誰か他人に指摘されたわけではなく、自分から気付いたことである。いったいこのような事態をどう説明したらよいのだろう。
記憶は自在に変化し、重ね書きが可能だ。無限に書いたり消したりできる広画面の黒板のようなものだ。
心を、水を満たしたボウルのようなものだと思ってください。そして記憶を、水に入れ、かきまぜたひと匙のミルクのようなものだと考えてください。大人の心には、何千匙ものミルクが、混濁した状態で溶けこんでいます。...…一体、水とミルクを分離できる人がいるでしょうか。
上記引用は、記憶領域における世界的権威として知られ、同時に刑事事件等の裁判において、誤った目撃証言や偽りの記憶が引き起こす冤罪救済のため弁護側専門家証人として長年に渡り活躍してきた、認知心理学者ロフタスによる記憶の性質に関する有名な一節である。
私たちは、人の記憶というものが思ったよりあてにならないものだということを経験上知っているものである。ちょっとしたもの忘れや記憶違い、勘違いは誰にでも起き、ある種の記憶は永遠に忘却され思い出すことがむずかしいことも知っている。
ただ、私たちがしばしば誤解しているのは、人間の脳あるいはこころにはある種の記憶装置のような機能が備わっていて、見聞きしたり経験した過去の出来事や情報は、基本「そのままの形で」どこかに保管記録されているものだ、と考えていることである。そして、あとは思い出せるか思い出せないか、覚えているか覚えていないかだけの個人的記憶力の問題にすぎないと考えている点である。
だが実際には、人が出来事を体験しそれが記憶として保管され、後になって出力(想起)されるその過程はずっと複雑なものなのである。その過程のなかで、記憶には実にさまざまな加工・編集・脚色が施され、再構成されたうえで私たちの意識に立ち上がってくる。記憶は、常に人がその後経験する出来事や他者の言動や記憶、個人的成長からくるやものごとの理解の深まりや信念、新たな知識知見の蓄積などが絡み合いながらさまざま変容してゆく。つまり元々経験した客観的事実から離れ、主観的に解釈・修正された「現実」として想起されてゆくものなのだ。
ロフタスの言葉通り、記憶の本質的性質はいわば現実と非現実のごった煮であり、事実と虚構、現実と想像や願望とが分かちがたく複雑に織り込まれた創造的メカニズムであるというのが、専門領域で一般的に受け入れられている学説なのである。
私たちの心は、過去の経験を歪めて記憶しがちである。黒澤明の『羅生門』やその原作である芥川龍之介の『藪の中』が、記憶をめぐる現実と想念の葛藤を通して人間を深くえぐり出したように、おそるべきは「事実」ではない「真実」が存在し得るということである。そうしたことについて、私たちはしばしば実際に見聞きしたこと、言ったこと、行動したことだと強い確信をもって知覚あるいは認識しがちなのだ。
「それは私がしたことだ」とわたしの記憶は言う。「それを私がしたはずがない」と私の矜持は言い、しかも頑として譲らない。結局…記憶が譲歩する。
記憶は「生きて」おり「成長」する。これが私が得た第二の教訓である。過去と記憶について、次回も引き続き触れていきたい。
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