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#27 心が病むとき

 Aさんは不眠症に苦しんでいた。
 Aさんにとって原因は明らかだった。それはAさんの住むマンションのすぐ上の階の部屋からいつも聞こえてくる音だった。
 いつの頃からか夜中も過ぎた頃、ドンドンと棒で床を強く突くような、あるいは何か重いものを床にドスンと叩きつけるような不快な音が響いてくるようになった。時には人が走り回るような音も聞こえてくる。まるで自分が眠りにつくころ合いを見計らっているかのように騒音が始まるようにAさんには思えた。しばらくは我慢していたが、騒音は次第に頻繁になりほとんど毎晩のように続いたため、とうとうAさんは管理人に相談を持ちかけた。
 Aさんのマンションには、24時間常駐の管理スタッフがいて住民の苦情や相談にも丁寧に応じていた。管理スタッフからはAさんにまず、音がしたら夜中でもいいから知らせてほしい、すぐにスタッフが向かう旨が伝えられた。騒音が聞こえるたびAさんは管理スタッフに連絡した。だがしばらくしてスタッフがやって来ても、なぜかその頃にはいつも騒音は止んでしまう。Aさんは確かに上から物音が聞こえていたと主張するが、管理スタッフは何度か訪れてもその騒音を一度も耳にすることができず首をかしげるしかなかった。
 そこで、管理スタッフはAさんから再度事情を詳しく聴収した上で、Aさんの部屋の周辺の住民に慎重に時間をかけ調査を行った。だが、やはり該当する深夜の時間帯に騒音を出すような部屋を特定することはできなかった。そればかりかマンションの他の住民の誰一人としてそのような騒ぎを聞いていないのだった。

 Bさんはある日突然、自宅のマンションの隣人から騒音のクレームを受けた。Bさんの部屋から夜遅く大きな音が毎晩のように聞こえてくるが迷惑なのでやめてほしいと言われたのだ。
 だが、身に覚えのないBさんは、何かの間違いだ、他の部屋からの騒音だと即座に否定した。ところが後日、驚いたことに他の住民からも同様のクレームが寄せられたことを管理人から聞かされ、Bさんはショックを受けてしまった。自分は静かに暮らしており、そんな騒音はたてる理由もなくまた聞いてもいない。なぜ自分が犯人扱いを受けなければならないのか、Bさんは訳が分からず、精神的に苦境に追い込まれてしまった。

 この二人の件は、後日その事実関係が明らかになる。
 Aさんが毎晩のように悩まされていたという騒音は、実はいっさい発生していなかった。Aさんは、存在しないはずの騒音にひとり悩まされていたのだった。
 一方、Bさんの場合は逆に騒音の発生源は間違いなくBさんの部屋、つまりBさん自身だった。Bさんが夜中に床に物を投げつけたり壁を叩いていたのだが、本人にはその自覚がいっさいなかった。たまたま上京してきた実妹がBさん宅に泊まった折、Bさんの夜中の異常行動を目撃し事の次第が発覚したのだった。

 これらが本当だとすれば、2人には何らかの精神疾患による幻覚・妄想、意識障害の存在を考えるのが普通にも思える。ところが、精神科医の診断では、二人は統合失調症や認知症といった精神の病気ではなかったし、その他の身体疾患や障害も見当たらなかった。
 では二人が正常で健康かといえば明らかにそうではなかった。さもなければこうした不可解な体験や挙動は説明がつかない。医学的に診断・定義される疾病はないが、二人の心は確かに病んでいた。いったい二人の心には何が起きていたのだろう。

 二人には共通点があった。高齢でひとり暮らしであったこと、そしてもうひとつ、ともに心理的な孤独を長く抱えて生きてきたことである。
 現代社会の暮らしにおいては、高齢者のひとり暮らしも、孤独を感じ生きていることもさして珍しいことではない。むしろ、ほどんど誰もが暮らしのさまざまな状況のなか、その期間の長い短いはあるにせよ、孤独やさびしさを抱えながら生きざるを得ないというのが実情だろう。ひとり暮らしイコール孤独かといえば必ずしもそうではないし、逆にはたから見れば恵まれた人生を送っているように見える人であっても、事実上家庭内や社会生活において孤独を感じて生きている人も少なくない。また、そうした人々の多くが心を病んでしまうかといえばそうとも限らない。

 二人の場合、孤独の何が問題となったのだろう?それは、この二人が感じていた孤独が、「度を越える」ほどの深いものであり、現実の生活において心理的にも社会的にも孤立していたことである。それは問題を感じ取る個人差、個体差にすぎないと思えるかもしれないが、孤独を人誰もが感じるみな同じようなものとして十把ひとからげに矮小化してしまうのは危険である。

 それも程度問題である。軽微なカゼも放置すれば肺炎などへと悪化するし、不適切な生活習慣を続ければ深刻な病を囲うことになるように、孤独もひどく「こじらせて」しまえば、心身に深刻な問題や不可解な現象を引き起こし、日常の暮らしに支障をきたすようになってゆく。

本連載記事 #18「孤独」

 
 孤独あるいは孤立それ自体は病ではないが、そのことが個人の精神状態に与える負のインパクトはときに想像を超える。とりわけ高齢者の場合、加齢に伴う病や心身機能の衰え、大切な人との死別、変化の速い社会についてゆけないあせりや漠然とした不安といった、生きづらさの背景がもたらす人生のよるべなさ、やるせなさの感情の反復・蓄積が、ときに深刻な精神症状を彼らにもたらす。
 高齢者に限ったことではないが、AさんBさんのようにそれまで特段健康に問題があるようには見えないいわば普通の人々が、唐突に幻覚や妄想を体験したり、常識では考えられないような言動を示すことは頻繁ではないにせよめずらしいとは言えない。現実生活のさまざまなストレスやプレッシャーの中、誰もが精神に変調をきたし得るし、その結果として事実や現実とはかけ離れた想像(妄想)上の認識に縛られる精神状態が生まれることもある。

 二人が心が病んでしまうほど孤独をこじらせてしまった背景には、それですべてが説明できるわけではないにせよ、それぞれの生きづらさの事情があった。
 Aさんはずっと独身でひとり暮らしで生きてきた。両親とは十代の頃から常に折り合いが悪く成人後も疎遠だった。結婚こそしなかったが仕事や人間関係に恵まれ、引退後の生活にも困ることはなくそれなりに老後を楽しむこともあった。だが若い時はそれほど苦にはならなかった自分の家族を持たなかったことへの後悔と自責の念は、老境をむかえた今次第に大きな苦しみとなっていった。Aさんの上の階には、顔見知りで自分とほぼ同年齢の高齢者が家族とともに暮らしていた。時折見かける幸せそうな(Aさんにはそう見えた)姿や話し声に対する羨望と嫉妬、自分の人生への落胆とが、時折わずかに漏れ聞こえる程度のくぐもった生活音を、Aさんの心の中で歪んだ形で増幅させ、幻のノイズを引き起こしていたのかもしれない。

 一方、Bさんは数年前コロナ禍の只中、夫を病で亡くしていた。唐突の死別によるショックとひとり残された不安があったのは間違いなかった。が、問題はより複雑だった。実は夫の生前から夫婦関係は悪く、事実上家庭内離婚の状態が長く続いてきた。夫に抱いていた嫌悪と不信、結婚生活への後悔の念が渦巻く仮面夫婦の生活は長く続いた。つまり、Bさんはひとりになるずっと以前から「孤独」だった。
 夫の死はそれでもやはり悲しくショックだった一方で、それとは真逆の夫への強い負の感情をうまく整理できないままひとり残されたBさんの苦悩はかえって深まった。夫に対する強い怒りがあった。だが同時に、夫などこの世の中からいなくなればいいと、ときに心ひそかに願っていた自分がおり、それが現実に起きてしまった罪悪感ゆえの自身に対する怒りもまたどこにも収めようがなかった。高まる精神的ストレスが感情のコントロールを不安定なものにし、堪えては爆発するというパターンを繰り返していたようであった。
 繰り返しになるが、誰にもありがちに思えるような人生の苦悩であっても、その思いと感情の反復継続と蓄積が精神に及ぼす影響の大きさは誰にも予想がつかないものなのだ。

 二人のケースのように、ひっそり孤独に暮らしている高齢者で、認知症や統合失調症といった疾患ではないにもかかわらず、幻聴や幻視、妄想に近いものを訴えるケースは以前からしばしば見られた。自分が不在中誰かが家に入っている、屋根裏に誰かいる、亡くなった家族の部屋から音が聞こえる...いわば「幻の侵入者」や「屋根裏の同居人」「さまよう死者の魂」といった体験を人々は訴えてきた。
 もちろん病気と診断されないため、医学的な治療、薬物療法にはあまり効果がない。むしろ心理(療法)的介入や実生活における環境調整や変化の導入を通じて、症状も徐々に落ち着きやがて消えていくことが多い。
 けれどもそうした妄想をありもしないことだと本人が最終的に納得することはあまりないかもしれない。AさんBさんもやがて回復してはいったが、自らの体験や訴えの真実性を信じて疑うことはその後もなかった。そしてまた、自分たちの人生は失敗であり不幸だったという思いを心から完全に消し去ることもまた困難だった。

 孤独は、現実生活上においても、心理学だけでなく多くの学問領域においても、つまり私たち人間の歴史上常に切実なテーマであり続けてきた。誰もの人生にさまざまなかたちでいつか立ちふさがるであろう孤独にどう対処し、人や自分をどう支えていくけばよいのか。次回引き続き考えてみたい。

※過去の記事(#18 )もお読みいただければと思います。)

ポコポコさん

(当サイト内記事で言及されている事例等については、プライバシーに配慮してご本人から許可をいただくか、内容や事実関係について変更、創作を加え掲載しています。)

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