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#18 孤独

 そこで〈孤独〉がもどってくるのだ。
「これはなに?」お客は訪ねるだろう。
「〈孤独〉だよ」ハリネズミは答えるはずだ。
「ここに住んでいるの?」
「いや、住んでいるっていうか、ここにいるんだよ。やって来たり出ていったりするんだ」
「そうか」
 そして、まだ紅茶も飲み終わっていないし、たがいにとても大切なことを言いたいと思っていても、どちらもとても孤独に感じるだろう。
「いまとつぜんぼくが感じているものはいったいなんなの?」お客は驚いてたずねるだろう。
「それはぼくの感情なんだ」ハリネズミは小声でつぶやくだろう。
 すっかり暗くなっていた。お客は黙ったまま立ち去るだろう。
 そして〈孤独〉が残るのだ。

トーン・テレヘン『ハリネズミの願い』長山さき 訳 新潮社

 「孤独」の意味についていくつかの辞書を引いてみると、どれもおおむね、頼りになる家族や心の通じ合う友人や仲間がなく、一人ぼっちで寂しいこと、などと記されている。分かりやすい定義だが、その他に、孤独の「孤」はみなしごを指し、「独」は老いて子どもがいない人を元々は意味したとある。つまりかつては、家族身寄りのない一人ぼっち状態を主に意味する時代が長かったかもしれない。

 私たち人間は、社会的動物といわれるように孤独にもともと敏感だ。孤独に対して容易に不安や恐怖を感じやすい生き物といえる(#12『相手』)。単独あるいは少数で生きのびることは難しいので、そうした事態を避けるため人は集団での共同生活を志向した。やがてその規模は次第に膨らみ、現代のような都市や国家といった大規模な社会へと発展させていった。
 そこでは、かつて「孤独」を意味したみなしごや老いて子なきものをはじめ、病や障害などを抱え孤立しがちな人々へのケアなり面倒を社会が一定程度担うようになり、安定した生存環境が確保されるという大きなベネフィットを生みだした。だが一方、その対価として「個」の主体性や自律性より、むしろ集団構成者としての義務と役割が優先され、さまざまな規律と制約への順応と適応を陰に陽に強く求められるようになっていく。

 社会が大規模化するに従い豊かさや自由も増える一方、人間関係や価値観も複雑多様化していく。目まぐるしい時代変化の中で、社会への適応要請の圧力が度を超え高まっていくと、社会内の競争や序列形成、格差や矛盾、利害対立や緊張も増してゆき、少なからぬ人々の間で、日々の暮らしで生ずる障害や困難にうまく対処しきれず生きづらさが芽生え始める。結果として、個としての自分と社会でのあるべき姿のギャップの耐え難さゆえの新たな「孤独」が生れていく。皮肉なことに、社会の発展は同時に孤独の増殖をももたらすというリスクをはらんでいるのだ。

 ある程度の孤独に対しては、人間には個人差はあるものの、耐えたり対処する能力がさまざま用意されている。また、孤独に対する感受性は人さまざまであり、とりわけ今のような社会においては孤独への欲求や必要性が高まることすらあるだろう。孤独を好む傾向の人びとも少なくない。
 けれども、それも程度問題である。軽微なカゼも放置すれば肺炎などへと悪化するし、不適切な生活習慣を続ければ深刻な病を囲うことになるように、孤独もひどく「こじらせて」しまえば、心身に深刻な問題や不可解な現象を引き起こし、日常の暮らしに支障をきたすようになってゆく。

 ある50代の会社員の女性は、自宅内をまったく片づけられなくなり荒れるに任せる状態になってしまった。20代の女性は、長い間不適切なアルコール摂取と過食に悩まされてきた。ある既婚男性は、30歳を過ぎた頃、突然自宅へひきこもり他者との接触を断ってしまった。会社を定年退職したある男性は、毎日出社する必要がなくなって初めて、自分がいままで「社会人」ではなく「会社人」にすぎなかったことを、孤独な日常と冷え切った親子夫婦関係に悟った。やがて彼はうつ病を発症した。

 孤独そのものは病ではない。何らかの精神的困難の原因ないしは結果「程度に」過ぎないともいえる。だが、孤独はいったん抱えるとそれはなかなか癒しがたい。上記4人の原因や症状はそれぞれであるが、長期にわたり内面に孤独感や疎外感を抱えてきたという点では共通していた。とりわけ過去何らかのトラウマを抱えてきたような人たちは、どこか周囲に対する敏感さや不信感を持ちやすく、深い孤独感を抱きやすいようだ。人と距離を取りたいと反射的に思う半面、本当は人の温かさを誰より求めている人たちなのだ。

 もう一つ彼らに共通していたのは、彼らが強烈な精神的苦痛を抱えながら社会生活を送ってきたことについて、周囲の誰一人として気づかず想像すらできないような、いわば「表の顔」を必死に装って生きてきた、ということである。実際たとえば、最初に挙げた50代の女性は私の知人だったが、彼女の自宅を訪れた時の第一印象は、「ここが本当にあの人の家だろうか」という驚きだった。彼女が常日頃周囲に与えていた印象や人柄、言動や交際関係などからはとうてい想像できないほど自宅内は荒れ、文字通りのゴミ屋敷に近い惨状であった。次に挙げた若い女性も、職場では極めて優秀で会社や同僚の評価も高く問題行動などは一切なく、友人関係も豊富だった。

 孤独の苦しさとは、自分はひとりで、どこからも助けはやって来ないという認識に加え、孤独であることを周囲に知られることへの恐れ、自身の不甲斐なさや罪、恥の感覚である。周囲に対して本当の自分を明かすわけにはいかないとする絶望感である。これはいじめや貧困、精神障害に苦しむ人々と重なる。
 そうした人々には、家族をはじめ他者との健康的で温かな愛着・対人関係を通して、人に頼ったり失敗や過ちを寛容に受けとめてもらえながら、不安や苦痛を乗り越えてゆくといった、成長に必要な経験課題を十分達成できなかった、それぞれに複雑な事情があることがしばしばである。そして、周囲や世間との「違い」にしばしば過敏にならざるをえない社会を生きるなかで孤独はその深刻度を増してゆく。

どのような幸福が、孤独のうちにありましょうか?一切を楽しむとしても、どんな満足がありえましょうか?

ジョン・ミルトン「失楽園」第8巻 平井正穂 訳 岩波書店

 

 『失楽園』の中でアダムは、自分の夢枕に出てきた創造主に向ってこう懇願したと天使ラファエルに告白する。確かにアダムの言う通りかもしれない。けれども、孤独から完全に無縁の人などいるのだろうかとも思う。誰もがなんらか孤独を抱え、いっとき消えたとしてもやがて別の新たな姿となってそれは幾度となく目の前に戻ってくるのではないか。むしろ、ひっそりと私たちに寄り添うようにしていつもそばにいる影のようなものかもしれないのだ。
 孤独の現実は、冒頭の辞書の定義よりもずっと複雑である。それが証拠といえるかどうかわからないが、孤独の対義(反対)語はなんだろうかとふと思い調べてみても、そのような言葉は存在しないようなのだ。自分の頭で考えてもこれだというものがなかなか思い浮かばない。あえて選ぶなら、最近よく用いられる「つながり(コネクション)」あるいは「絆(きずな)」ということになるかもしれないが、それでは十分言い尽くせていないように感じる。それはつまり、新たな孤独は常に生まれ、その姿はあまりに多彩で容易に定義しがたいということを物語ってはいないだろうか。

 孤独はだれにとってもつらいものだ。それをこじらせてしまえば深刻な事態も招く。そういう意味で孤独とは、人とのつながりが希薄になるなかで「自分を見失っていく過程」といえる。
 けれども、孤独であることを人格や人間性の欠陥であるとして、周りが批判的になったり、本人が自分をおとしめ恥辱感にひきこもるのは誤りである。なぜならそうした態度は、人が抱える孤独がそれぞれに背景を持ったなんらかの意味を持った表現であり、これまでを生きるに必要な「機能」「役割」を果たしていた現実すべてを否定することを意味するからだ。そんな大切な機能を無理やり奪おうとしたり、否定されたりすれば、それに強く抵抗するのは自然なことである。同時に、単純に孤独を嫌ったり取り去ろうとすることの危険性をも意味するだろう。
 だから大事なのは、孤独を抱える本人やその周囲の人たちが、その孤独が持つ意味を知ろうと努めることである。孤独な自分あるいは他者を心からねぎらい、その孤独にまず敬意を払う。それが孤独を「終わり」ではなく新たな「始まり」にするための前向きな第一歩である。


まぽさん



 

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