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#28 心が病むとき (2)
ねえ、あたし本当に馬鹿になってしまって、ここでたった一人、いつも一人ぼっちで、こつこつ、こつこつと歩き廻りながら、のべつ考えてばかりいるんですの。いろんな考えがつむじ風みたいに荒れ廻って、なんともいえないほど苦しくて!
何らかの生きづらさの背景がもたらす心理的あるいは社会的孤立状態、つまり孤独が放置されることによって心が病んでしまうと、人は心身にさまざまな異常や異変を体験すると前回書いた。では孤独が極度に高まるとき心はいったいどのような状態なのだろう、何が起きているのだろう?
人はバランスの生き物である。心と体を構成するさまざまな機能と構造がたえず拮抗的に働き相互に作用・反応し、影響を与え合いながら緻密に制御されることによって心身の安定(恒常性)は確保され、そのおかげで私たちは生存している。その安定なり恒常性とは、常に変わらぬ同じ状態というよりもむしろ、様々な環境や状況の変化に最適化すべく絶えず変化(制御)し続ける柔軟さと言ってよい。
私たちの種は、より大きく、より速く、より強くなることによってではなく、賢くなることによって生き残り、繁栄してきた。
とりわけこころ(認知能力)の柔軟さは、まさにこのルドゥーが表現するところの賢さのコアに違いない。
人が正常あるいは健康を維持しようとバランスをとる力、柔軟性には本来十分なゆとりと回復力がある。だからたとえ外部から何らかのネガティブな影響を受け、一時的にバランスを失ったりすることがあったりしても、普通ならばやがて正常へと復元してゆく。
けれども、時として人の精神は、そのバランスが偏った傾向や方向に振れたままいっこうに元へ戻らない状態に陥る。それを私たちは「病んでいる」「病気にかかっている」などと表現するのだと考えるとわかりやすい。
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では前回(#27)例としてあげたAさんBさんの二人が深い孤独から体験した精神病理は、いったいどのようなバランスが破綻していたのだろう?それは心理的に言えば、主観と客観のバランスの破綻だろう。人は孤独な状態に長期に置かれると、主観と客観、つまり個人的な想像や思考、感情と、理性的で現実的な思考や見解との間に深刻なズレが生じる。主観の世界が客観のそれを圧倒し、バランスを欠いた極端な思考判断や行動を制御することがむずかしくなる。そうして映し出される世界を信じて疑うことがない傾向を強めてゆく。
孤独は、本人が抱く考えや認識に異議をさしはさんだり、他の選択肢なり可能性を提示する援助や情報といった外部からの介入の存在がほぼ皆無な状態である。彼らには、誰にも頼れず話せず、本音を隠して我慢し続けてきたため、心理的苦痛を和らげるための方法と手段のバリエーションが、健康な状態にある人に比べて極端に不足している。ひとり自己流に対処するしか方法はほとんど見えない。以前書いた記事(#18)で、「孤独は人とのつながりが希薄になってゆくなかで『自分を見失っていく過程』」と表現したが、これがまさしくこの主観世界の「暴走」である。
二人の体験が起こした騒動は、自己の感覚や記憶を混乱させることでなんとかその孤独の苦痛を薄め覆い隠そうとする、二人なりの精一杯の自己治療的対処が裏目に出てしまった結果だったといえる。
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そんな人々を支えていくためにはどうしたらいいのだろうか?これまでの話の文脈からすれば、答えはその心理的バランスを回復させる、ということにはなる。確かに孤独に閉じこもり主観過剰の世界を生きている現状を、よりバランスの取れた生き方に向かって支えてゆくことは大切だろう。けれどもそれは簡単ではないし、なによりそれ以前になすべきもっと大切なことがある。
それは、相手の混乱している状態の間違いをさまざま指摘・解釈したり、現実的な認識や行動を促すといった、周りにいて支えようとする側がついやってしまいがちな「相手を正したい」欲求や衝動を抑えることである。そうした働きかけは、健康な状態にある側の人間から見えている都合のよい理屈にすぎない。
相手を変えようとするのではなく、こちら側が変わっていくこと、一見矛盾しているように思えるかもしれないが、彼ら本人の「主観」の世界にまずもって真摯に寄り添うことが大切なのだ。時間はかかっても、彼らだけが知る長く苦しい苦闘の歴史に耳を傾け、その理解を援助する側の言葉で返しながら真に共有しようとすることである。
私たち皆そうだが、人は何かに悩み葛藤を抱えているとき、他者から単に冷静な意見なり正論を突き付けられ自分が信じていることを否定されれば、現実を簡単には受け入れることなどできない。たいていは抵抗し、説得は不成功に終わる。本人にとっては、そうした働きかけは精神的弱さだとか性格的未熟さ、我慢の足りなさ身勝手さといった、心ないお決まりの精神的弱者のレッテルを貼られるに等しく、自己嫌悪や罪悪感といった負の感情がかえって強化されてしまうからだ。
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苦しい状況に置かれている人々は、たとえるなら暗い穴の中に落ち込んでひとり身動きが取れない状況にあるようなものだ。彼らも心の片隅では、誰かが穴の上から下を覗きこみ、自分を見つけてほしい救ってほしいと願っているかもしれない。だがその半面、けっして自分から助けを叫ぶことはできないこともわかっている。
「孤独の苦しさとは、自分はひとりで、どこからも助けはやって来ないという認識に加え、孤独であることを周囲に知られることへの恐れ、自身の不甲斐なさや罪、恥の感覚である。周囲に対して本当の自分を明かすわけにはいかないとする絶望感である」
だから、彼らを救うために必要なことは、遠く明るい穴の上から励ましたり、ロープを垂らし上がってくるよう説得するのではなく、こちらから暗い穴の底まで降りてゆき、隣に座ることだ。「降りて隣に座る」とは、本音を隠して我慢してきた彼らが、みずからの感情に蓋をすることなしに、不安や苦しさを正直に安心して外へ向かって語れるような環境を周囲が整えることを意味する。けっして相手に何らかの変化や行動を促すことではない。そして苦しみに気づこうとしている人がいることを伝え、彼らが語ることにじっと耳を傾けることが大切なのだ。この「じっと」とはただ何も言わずにということでなく、先ほど指摘した私たちのいわば「正したい病」を抑えることを意味している。けれどもこれは健康な人にとっては難しいミッションだ。
彼らには心理的に孤立せざるを得ないそれぞれの人知れぬ生きづらさの歴史と複雑な感情がある。いままで誰にもけっして語らず心の中にしまいこみひとり懸命に生きていくしかなかったことへの罪悪感も自己嫌悪も痛切に感じている。だから現実や病状を受け入れることだけ暗に先に求め、心の平穏と安心が置いてきぼりにされるような関わり方は避けるべきである。私たちの相手を正したい欲求や衝動を抑え、共感を寄せ続けて行くことができてはじめて、簡単ではないにせよ本人は今までとは違った世界を視野に入れ一歩を踏み出せるようになっていく。周囲の協力を得ながら心理的苦痛に対処するための方法や手段を学びながら、かすかな自信と希望が芽生えていくのはまだその先の話なのだ。
彼らの多くは、普段決して気づかれぬよう振舞うだろうし、自分を開示することもないかもしれない。時に理解しがたく周囲に不快感すら与える存在として見られている場合も少なくない。すべての人びとに支援の手を差し伸べることが困難なのは事実だ。けれども、その人なりのSOSを発している人々は思いのほか多いものだ。前回の二人の体験が起こした騒動も、それが彼らなりの周囲へのSOSでもあるとわかると、そうした人々に対する周囲の見方接し方も変わっていく。彼らの存在に気づき支える役割と手段の多くに、専門家や特別な知識もさして必要のないこともわかってくる。彼らはいつも私たちのまわりすぐ近くにいるのだから。
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私たちはバランスの生き物である。しかしそれ以前に私たちは主観の生き物である。生きてきた証としてのそれぞれの物語に生きる動物だ。上で繰り返し述べたように、相手を正したい衝動を抑えること、相手を変えようとするのではなくまず自分達が変わろうとすること、相手の語りに真摯に耳を傾け共感を寄せようとすること。こうしたことの根本にあるのは、自分のことであれ他者のことであれ、またそれがいかなる歴史であれその苦労を心からねぎらい敬意を払うことに他ならない。それが孤独な今を不幸な人生と総括するのではなく、新たな「始まり」にするための大切な第一歩である。現実より安心が時として人の心をより強く動かすことをいつも心の片隅に置いておきたい。
私たちにとって唯一の真実は物語的真実、わたしたちが互いや自分自身に話す物語、たえず再分類し、磨きをかける物語である。そのような主観性は、記憶の本質そのものに組み込まれ、わたしたちがもつ脳内の記憶の基盤とメカニズムから得られる。
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