1994年のベースボール
1.
良く晴れた春の日の午後、大谷少年が近所の原っぱへ行くと、いつものように二つのグループがいた。一方はひたすら木の棒をぶんぶんと振っていた。そしてもう一方は球を握って、ひたすら遠くへ向かってそれを投げていた。棒を振っていたグループと、球を投げていたグループがほぼ同時に、大谷少年の存在に気づいた。
「やあ大谷少年。今日こそ俺たちと一緒に棒を振る気になってくれたかい? 君なら、他の誰よりも重い棒をぶんぶんと振ることが出来るだろう」と棒のグループが言った。
「いやいや、大谷少年。君にはこの球が相応しい。君なら、他の誰よりも遠くまでこの球を投げることが出来るだろう」と球のグループが言った。
実際、二つのグループが言っていることは正しかった。大谷少年は誰よりも重い棒をぶんぶんと振ることが出来たし、誰よりも遠くまで球を投げることが出来た。そして大谷少年は迷っていた。なぜなら、大谷少年は棒を振ることも、球を投げることも大好きだったからだ。
「棒と球、どっちも同時に使うことはできないかな?」と大谷少年は言った。
一瞬、原っぱはしんと静まり返った。そして次の瞬間、その場にいた誰もが一斉に笑い出した。
「おいおい少年! いったい何を言ってるんだい?」「棒と、球を同時にだって? 全く、いくらこの春のうららかな午後だからって、寝言を言っちゃあいけないぜ!」
ひとびとが腹を抱えて笑うので大谷少年は少しムッとした。大谷少年が黙って棒と球を持っても、いやなおますますひどく、ひとびとは笑い転げていた。
大谷少年が宙に向かってふわりと球を放り投げた。そして棒を強く握りしめた。
次の瞬間、ビュン! と恐ろしい音がした。それは大谷少年の棒が空気を裂く音だった。大谷少年の棒は真芯で球を捉えた。かきーん、と実に気持ちの良い音がして、球はそれまで誰も見たことがない、とても美しい軌跡を描いて四月の青空の彼方へ消えた。
その場にいた誰もが何も言わず、身じろぎさえせずその軌跡を目で追い、立ち尽くした。やがて原っぱに気持ちの良い風が吹いた。しかしじわじわとしたものが、その場にいためいめいの細胞ひとつひとつから、じんわりと沁み出てきた。それは歓喜だった。ひとびとはその原っぱで、大観衆に埋め尽くされたスタジアムを幻視した。
ひとびとはただ声を上げ、両手を天に掲げ、跪き、泣いた。
この日、世界にベースボールが誕生した。
2.
「その日、ちょうどあの原っぱではじまったんだ、ベースボールが」
おじいさんはよっこいしょと土手に腰をおろした。僕もその隣に座った。
陽の光はあたたかくてやさしかった。草も虫も、黄金の秋をめいいっぱい楽しんでいた。しかしはるか向こうの山の稜線の、さらに向こう側に、重苦しい石のような雲があるのを僕は見た。それは冬の雲で、もう間もなくこちらにやってくるのだった。
僕はおじいさんに、大谷少年の話をもっとしてよとねだった。おじいさんはそれは楽しそうに、そして時折ふっと、とても疲れたような、辛そうな顔をして、ともかく大谷少年の話をしてくれた。
「大谷少年は凄かった。凄いなんてもんじゃあないな、ありゃ。神さまが造って寄越したのに違いないって皆口々にそう言ったもんさ。彼はここでベースボールをつくった。棒と球、そのふたつを繋ぎ合わせて、ひとつにまとめちまったのさ。そこから、いくつものチームがこの国のいたるところで生まれた。皆このベースボールってやつに夢中になった。朝から晩まで棒を振って、球を投げた」
「おじいさんも?」
「そうさ。俺はこう見えて東の町で一番上手いベースボールの選手だった。だけど彼の前ではまるで大人と子供くらいの差があった。初めて大谷を見たときにそれが分かった。実際そのころの大谷といえば全長50メートルくらいあったから、顔を見るのにいちいち見上げなきゃいけなかった。彼が投げる球も、振る棒も、まるで見えない。彼が棒をぶんと振るうたびに山が砕け嵐が起きた。彼が球を投げるたびに海は割れあるいは深い谷が出来た。そしてあるとき遠い異国の大王が連れてきた精鋭一万人を相手に彼はひとりでベースボールをやった」
「どうなったの?」
おじいさんは肩をすくめて両手をあげた。それから山を指さした。
「あの山を超えて百夜歩いたところでそれは行われた。試合は七日七晩続いた。太陽さえ西の大地に沈むことを拒み、月とともにその成り行きを見守ったんだ。大谷はこのとき生まれて初めて本気を出した。そして世界に“冬”が生まれたんだ」
「冬が生まれた?」
「そうだ。激しい風と雷が全てを砕いた。鳥は地に落ち木は枯れ果て彼の地に生きるもの全てが死に絶えた。だから冬はあの山の向こうからやってくるのだ」
僕は山の稜線から僅かに顔を覗かせるその雲を見た。
「冬の空から落ちる最初の雪は、大谷の心が最後に流した涙だ」とおじいさんは言った。
「大谷の、最後の涙?」と僕は繰り返した。おじいさんは黙って頷いて、
「ひとの心というのは、いわば家のようなものだ。家は大きかったり、小さかったり、ボロボロだったり、綺麗だったりする。そしてそこに自分の大切なものをしまい込む。それは思い出だったり、友人や家族や恋人だったり、誰にも見られたくない秘密だったりする。ともかく、心の家にはそのひとの思い出や気持ちが詰まっている。大事なものが詰まっているんだ。そしてその鍵は誰にも渡しちゃいけない。大事に握りしめておかなけりゃいけない。
だが大谷は渡しちまったんだ。その鍵を、ベースボールに渡しちまった。ベースボールは大谷の心の家を完膚なきまでに叩き潰した。その窓を、壁を、床を、天井を。そこにあった一切合切を」
おじいさんはそこで言葉を切った。まるで石でできた言葉を、無理くり喉から取り出しているようで、おじいさんはとても苦しそうだった。
おじいさんはしばらくの間とても苦しそうに顔を歪めて黙り込んだ。そして再び話し始めた。
「それが大谷の本当の望みだったのか、今では誰にもわからない。分かるのは、大谷の心が無くなっちまったってことだ。あの山の遥か向こうの果、世界の終わり、冬の起源。そこで大谷は最後の涙の一滴を流し、ベースボールはついに大谷そのものになっちまった」
急に冷たい風が吹いてきて、僕は思わず身震いした。太陽が地平線に沈んでいくところだった。おそろしく綺麗な赤い夕焼けと、夜の闇とのあいだに、どっちつかずの青があった。
「それから大谷はずっと笑い続けた。それは人を魅了する、本当に気持ちのいい笑顔だった。だけどそれは、大谷が楽しいからじゃない、嬉しいからじゃない。大谷にはもう心は無かった。彼はただそのほうが周囲の人間が安心するから、あえて笑っている振りをしていた。大谷にとって笑顔とは共感のひとつのかたちじゃなくて、単なる筋肉の痙攣の一形態に過ぎなかった。あるいはこう考えていたかもしれない。この顔をしておけば、投球時に考えを読まれないから、ベースボールをするうえで有利になるかもしれない、と
代わりに大谷は犬を愛した。犬に魂は無い、犬は空っぽだ、まるで大谷そのものだ。だから大谷は犬を愛した。大谷の住んでいた家は約2,700エーカーの敷地いっぱいに大理石が敷き詰められ、そこに巨大な円柱が等間隔で建てられていた。壁はなく、屋根とそれを支える見事な石柱だけがあった。だが大谷にはそれで十分だった。それ以外の何も必要じゃなかった。大谷はそこに犬と住んでいた。大谷はベースボールをしていないときは常にそこにいた。
大谷は心を喪ったが、かといってそれが不幸だった訳ではない。大谷の内部はいわば風ひとつ、波ひとつない夜の湖の静寂だった。そこには完全なものがあった。完全な調和が。完全なベースボールが。大谷は幸福だったにちがいない。大谷は心こそなかったが、代わりにベースボールと犬があった。
だが永遠に飛び続ける球は無いのだ。犬は67年生きて」
「67年?」
「ある朝大谷の腕の中で静かに息を引き取った」
「ちょっと待って? ほんとうにその犬は67年も生きたの?」
おじいさんは少し考えて、
「あるいは68年生きて」
「68年?」
「ある朝大谷の腕の中で静かに息を引き取った」
「大谷の犬はろっ、67ないし68年も生きたの?」
「そうだ。大谷は悲しまなかった。涙一つ零れ落ちなかった。それが何より大谷にとって堪えた。大谷は以前にも増してベースボールにのめり込んだ。のめり込もうとした。だけどもう、この世界は大谷がベースボールをするにはあまりに小さすぎた」
陽が沈んだ。草むらのあちこちから虫の音が聞こえてきた。
「大谷は、大谷はどうなったの?」と僕はたずねた。
「ある朝大谷はその約2,700エーカーの家を出て、ひたすら西へ向かった。ずんずんと歩いた。やがてこの世界の果についた。そこから先は海だった。そこに住んでいた最果の民は大谷にこういった、オオタニサン、ここから先は何もない、何もないんだよ、と。大谷はかぶりを振って、手に持った棒の中央あたりを縦にくりぬいた。そうやって大谷は一艘の船を拵えた。そしてその船に乗って、世界の果の更に先へと向かった」
おじいさんはよっこいしょと立ち上がり、「わしの知る大谷少年の話はここでおしまい」と告げた。
「大谷は、大谷はどうなったの?」と僕はおじいさんに尋ねた。
おじいさんは顔をくしゃっとして笑った。それが話の終わりの合図だった。仕方がないので、僕はおじいさんのあとについて家に帰った。
その晩、夢を見た。
大谷の乗る船は星々のあいだを抜けて、天に広がる闇の奥を目指していた。船には大谷と、大谷の犬が居た。犬は時折大谷のほうを振り返り、そのたびに大谷は犬の頭や喉や背中をごしごしと撫でていた。犬はうっとりとした様子で、大谷に身をゆだねていた。大谷はとても気持ちの良い笑顔をしていた。とても静かな海を、大谷と大谷の犬を乗せた船が音ひとつ立てず、何処までも……。
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