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 マッチング・アプリで知り合ったその男は、店に着くなり、挨拶もそこそこに、自分がこの前行ってきたという展覧会の話を始めた。確か、何とかというアニメか、漫画の作家のものだったと思う。彼はそこに展示された原画や、企画書(私でも聞いたことがあるものや、日の目を見なかったというものまで)や、その他の細々とした資料(その作家が幼少期に使っていたという、たいそう古い文机、とか。学習ノートの落書きとか)の数々について、展覧会の目録上での識別番号、資料名、および原材料名を、頭からお尻まで(つまり、資料番号その1から、最後まで)、一切の省略無く私に向かって説明した──75番、○○(私でも知っている、テレビアニメのタイトルだ)、第42話、絵コンテ、No.290から300。紙と鉛筆。76番、同42話原画──。
 途中、彼は何人の介入も許さなかった。注文を聞きに来た店員の言葉を手で遮った。代わりに私が店員とやりとりしているあいだ、彼は一時停止したテープレコーダーのように沈黙した。一言も発さず、表情ひとつ変えず、ただ目を伏せて、テーブルの上を見つめていた。
 私は生ビール二杯(「ビールでいいか」と何度も尋ねたが、彼はなにも答えなかった)(何なんだ)、点心(四種セット)、小籠包、ピータン豆腐、魯肉飯を頼んだ。
 私が生ビールを三杯飲み、お通しのザーサイ(コリコリとして美味しい)、小籠包(飛び出た肉汁が紙のエプロンと彼の眼鏡に飛び散った)とピータン豆腐(癖が強い)と魯肉飯(美味い)をあらかた食べ終えるころ、彼は展覧会の目録を全て読み上げた。読み上げた、と言ったが、彼の手元に紙なりレジュメなりがある訳ではなく、彼はそれらを諳んじてみせたのだ。そしてその一つひとつについて、彼は彼自身による感想も、解釈も、説明も行わなかった(途中一度だけ、とある作品の、作画のためのレイアウト資料の、「目録上の表記と実際の展示内容が異なっていた」ことについてだけ、苛烈な怒りを静かに表明した)。
 目録を全て(そもそも原本を知らないのだから、そう判断するしかない)諳んじ終えると、彼はふぅ、と小さく息を吐き、温く、気の抜けているであろう生ビールを、水でも飲むような勢いで一気に呷った。ジョッキ(彼の説明の序盤からテーブルに置かれていたそれの表面には滝のように水滴が滴っていた)をテーブルに置き、お手拭きで手と指と手首とを執拗に拭き、拭き終えたそれを折り目正しく折りたたんでテーブルの隅へ置いた。
 私は彼に対して何か言うべきだろうか? 何も思いつかなかった。私は四杯目のビールをぐびぐびと飲み干し、ニラ饅頭を食べ、点心セットの残りを口に運んだ。美味い美味い。
 彼は口を開かなかった。背筋を伸ばし、テーブルの上に置いた自身の両手の指先を見つめていた。彼の指先はほっそりとしていてきれいだった。私は、先ほどまでの彼の独唱を振り返り、そこに彼という人間そのものを現わすような何か──魅力とか、人柄とか──があったかどうかについて考えた。彼はただ目録(と思われるもの)を、最初から最後まで諳んじただけだった。
 彼はとても記憶力が良くて、几帳面なのかもしれない、と私は思った。そして次に、この店を出たあと彼と円滑に、かつ最速で別れるためのシミュレーションを、幾つかのパターンに分けて繰り返し行った。
 そのシミュレーションを頭の中で高速で回しているときに、
「喋る人面岩があるんです。見に行きませんか?」
 と彼が出しぬけに呟いた。
 喋る人面岩? 喋る人面岩を見に行く、という誘い文句は、私のシミュレーションの中には無かった。現状からあまりに飛躍のある惹句に、私は何というか、いきなり顔を殴られたような、茫然自失、ある種のショック状態に陥り、いったい彼に何と返せば良いのか、まるで思いつかず、黙りこくって彼の顔を見つめることしかできなかった。
「喋る人面岩があるんです。見に行きませんか?」
 私はただ黙って首を縦に振るしかなかった。

「“ならく”にその人面岩はあるんです」と彼は言った。
「“ならく”?」と私は聞き返した。
 彼は答えず、振り返らず、すたすたすたと私の前を歩いていった。私も黙って彼のあとを若干の小走りでついていった。
 地下街は駅から離れるにつれて、細く、狭く、薄汚くなっていった。大人が二人か三人、横に並べばいっぱいになるような細さの通路が入り組んで、枝分かれして、どこまでも広がっているように見えた。いくつかの通路が忘れ去られ、朽ち果てている所を私は想像した。
 通路の両脇に、閉じられたシャッターが連なり出したころ、前を歩く彼が突然直角に進路を転換した。私は彼の背中に顔をぶつけるところだった。
 曲がった先の角っこの、ひときわ奥まったところに、一軒の店があった。開きっぱなしの扉の奥に、年季の入った、ねっとりとさえした暗闇とカウンター、そしてバックバーに並ぶ大量の酒瓶が見えた。カウンター席には店と同じくらい年季の入った、給仕らしき壮年の女(と判断したのは、彼女の頭にメイドが頭につけるようなホワイトブリムがついていたからだ。それが無ければ客か、あるいは……)が、座りながら煙草を喫んでいるのが見えた。
 入口の脇に置かれた看板には、奈落、と書かれていた。ならく。なるほど。

 店内はきわめて暗く、目が慣れるのにしばらく時間がかかった。カウンター席には給仕の女以外、誰も座っていなかった。入口から向かって左手側に幾つかのテーブル席があり、客がまばらに別れて座っていた。大抵はひとりか、ふたり。三人以上で座っているテーブルは無かった。全員が例外なく黒っぽい服を着ていた。いずれのテーブルからも、煙草の煙がもうもうと立ち込めていた。煙と暗い照明のために、客の顔はほとんど見えなかった。煙の向こうに、ぼんやりとした身体や顔の陰影が、かろうじて見えるばかりだ。
 彼と私はカウンター席に座った。カウンター席に座っているのは私たちだけだった。カウンターは店の右奥に向かって伸びていて、奥に向かうに従って、カウンターの天板や並べられたスツールの輪郭なんかが闇と混ざって見えなくなっていた。
 彼は給仕の女を呼んだ(パチン・パチン、と指を二度鳴らした。正気か、と思った)。女は店内上部に設置された液晶テレビでスポーツかなにかの試合をじっと見ていた。彼はもう一度指をパチン・パチンと鳴らした。正気か。女は難儀な様子でスツールから腰を上げ、こちらにやってきた。
 そういえばそもそもメニュー表を貰ってないな、と思った矢先、彼が「スコッチのオン・ザ・ロックを、ふたつ」と言った。
「うち、コーヒーしか出してないですよ」と女が言った。
 あおぇっ、と彼は声を上げ、少しのあいだ完全に固まった。それから「じゃ、じゃあ、コーヒーをオン・ザ・ロックで」と言った。
「アイスですか、ホットですか」
「ホットのオン・ザ・ロック」と彼は言った。
 はい、と女は頷き、カウンターの中に入り、更にその奥の厨房へと消えた。
 女がホット・コーヒーのカップを二つ(氷は入っていなかった)と、ミルクとシロップの入った容器を持って戻ってきた。彼と私はそのコーヒー(とても美味しかった、と思う。暗すぎて味どころでは無かったというのが正直なところだ。ブラック・コーヒーとそれ以外の境目を見分けるのが困難なほど、店の中は暗かった)を飲んだ。そのあいだ、お互い一言も口を利かなかった。
「だっしゃぁ!」と給仕の女が、テレビ画面を見たまま小さく拳を掲げ、スツールから腰をちょっと浮かせて、また座った。
 コーヒーを飲み終えると「では、行きましょう」と彼は言った。そして席を立ち、入口とは反対側、カウンター席の背後に沿って伸びる通路の、奥の闇へと向かって歩き始めた。
「あ、え、人面岩は?」私は尋ねた。
「だから、行くんですよ。喋る人面岩のところへ」
 彼はそう言って、そのまま店の奥の闇へ消えた。私は彼の消えた先を見つめ、立ち尽くし、それから後ろを振り返った。カウンターに座った給仕の女は相変わらずスポーツの試合を見ていた。

 店の奥へ伸びるその通路は、進むにしたがってあらゆるものが──踏みしめているはずの床が、左手にあるはずのカウンターが、右手側の壁がそして天井が──闇のなかに沈みこんでいた。それほど広い店ではないと思うのだが、終わりが見えない。もしかするとこの通路は、どこまでも際限なく伸びているのではないか、と思った矢先に、私は彼の背中にぶつかった。
「ちっ」と闇から舌打ちがしたので、「あ?」と思わず声が出た。
「ここから低いんで、気をつけてください」と彼の声がした。
 だんだん目が慣れてきた。目の前がどうやら突き当りの壁で、その下にこじんまりとした矩形の穴が空いているのが見えた。茶室のにじり口のように狭い穴だ。彼は身をかがめ、そこに入っていった。穴の先は、店内よりも更にねっとりとした闇で出来ていた。掴んで、千切れそうなほど、ねっとりとしていた。
 彼の消えた先の小さな矩形の闇を眺め、その場で逡巡していると、穴の向こうから「早くしてくださいよ」と、やや険のある声がくぐもって響いてきた。私は舌打ちをしてから身をかがめ、にじり口へと潜った。
 入ってすぐ、にじり口は左に向かって折れ曲がった。入口と同じくらい小さくて狭い穴だ。埃と、かびのにおいがした。いま私がいる穴の先、それほど遠くないところに光が見えた。私はそこへ向かって、しゃがんだ姿勢のまま、一歩ずつ前へと進んだ。私は彼の名前(もう忘れてしまった。そもそも彼は私に対して名乗っただろうか? 仮に「目録氏」とでも呼ぼう)を呼んだ。返事は無かった。ダボが。
 おそらく実在的な距離という意味ではそれほど、せいぜい10メートルとかそれくらいだったと思う。それでも穴の先のわずかな光を除いてほぼ光源が無く、そのうえしゃがみ歩きでちまちま進んだものだから、なんとも心細く、実際より遥かに長い距離を歩かされたような気がした。
 穴を抜けるとそこは至って普通の家にありそうなタイプの廊下だった。壁の上部に、ガス燈めいた意匠の明かりが等間隔に取り付けられていた。廊下の先の曲がり角のところに目録氏は立っていた。「大丈夫ですか?」とも言わなかった。私が穴から廊下へ出てきたのを見届けると、彼は曲がり角の先へと足早に消えた。
 廊下はまず左へ折れ曲がり、次に右へ折れ曲がった。その先の突き当りに、廊下とは似つかわしくない鉄製の扉があり、これを開くと下へ降りる階段──建物の一階分、というより中二階か、あるいはもっと、ほんの少しだけ降りるための、短い階段──があった。階段がある短いエリアだけ周囲の壁がコンクリートで出来ていた。
 階段を降りた先にも鉄製の扉があり、開けると先ほどと同じような廊下が現れた。廊下を五メートルかそこら歩くと今度は右に折れ曲がる。また五メートル歩き今度は左へ。突き当りに同じような鉄製の扉。中二階分下り、鉄製の扉を開けて、また廊下。五メートル歩き、今度は右へ曲がる。歩く。再び右だ。次の角でも右。曲がった先の突き当りに鉄の扉。中二階分の降下。そして鉄の扉……廊下。右。いや左? 扉。階段……。
 最後の扉を開けた先に廊下は無かった。真っ暗だ。音の響きからすると、どうも開けた場所のようだった。15メートルくらい先に、ぼんやりと薄明るいところがあるのが見えた。目録氏は既にそこにいた。彼は目の前の、ひときわ大きな、ボリュームのある何かを見ていた。うすぼんやりとした光はそこを中心に降り注いでいた。私はそこに向かって恐る恐る歩いた。足元は見えなかったが、先の廊下と違い、地面からはまちまちとした凹凸や硬軟が感じられた。
 その場所には、かなり上のほうから、うっすらと弱々しい光が降り注いでいた。どこからの、何の光だろうか? 薄明りに照らされたエリアの、ちょうど中心、私と目録氏の目の前に、大きな岩があった。高さはだいたい2、3メートルくらい。表面を見る限り、暗い灰色の、ざらざらとした岩のように見えた。そして岩の表面の凹凸は、くっきりと人間の顔を形つくっていた。
 人面岩だ。
 顔は縦に長い。額は広く、髪に見える部分はオールバックだ。眉には、はっきりとした太い陰影があり、その下に深い奥二重の目が二つ。顔の中央を通る、くっきりと立体的な鼻筋。その下の唇、特に下唇は分厚く、顎は角ばっている。
 一つひとつの造形自体は取り立てて言及するほどのものでもない。しかし全体として見た際に、その危うげなバランス感覚は何故か私を強く惹きつけるた。そこにはエキゾチックなセクシーさがあった。私は思わずどぎまぎとしてしまった。
 そして初めてこの人面岩を見たのにも関わらず、私は“彼”に見覚えがあった。
 そう、アダム・ドライバーだ。
 アダム・ドライバーに激似の人面岩が、そこにいた。
「アダム・ドライバー……?」と私は思わず呟いた。
 すると目の前の人面岩の、ふっくらとした唇のあいだに空いた隙間から、
YES──
 低く太い男の声がした。人面岩が、喋った──!

 いや、アダム・ドライバー違うやろがい、と私は思った。

「ね、喋る人面岩でしょ?」
 目録氏が、この日初めて笑顔を見せた。悪戯に成功した少年のような屈託のない、透き通った笑みだった。いや喋る人面岩とか、そういう話と違うやろがい、アダム・ドライバーに激似やろがい、と私は思った。
 そして驚くべきことに、われわれの会話はそこで途切れた。
 私はてっきり目録氏が、このアダム・ドライバー激似の喋る人面岩について、何かのいわくでも語るのかとばかり思っていた。しかし彼はその責務を放棄し、ただその場に、それこそ石像のように突っ立っていた。肩幅よりもやや広く足を開き、重心は右足に預け、股の前に置いた左手のうえに右手を重ねた姿勢で。一方、アダム・ドライバー激似の人面岩は表情一つ変えずに(岩だけに)そこに在った。
 厭なタイプの沈黙だった。居たたまれない、意味の分からないタイプの沈黙だった。私は、信じられない(あるいは、「お前のターンやろがい」)という気持ちを、表情筋のすべてに込め目録をねめつけた。一方の目録氏はアダム・ドライバーのほうをぼけーっと見て、右手で眼鏡のブリッジをクイと持ち上げ、小さく咳払いをして、一瞬だけ私を見て(はっきりと目が合った)、すぐに目を逸らし、眼鏡のブリッジを神経質そうにクイと持ち上げ、右手で左肘をさすってから抱きかかえ、再びチラリと私を見て、しばらく私と見つめ合い、「えっ?」と声を上げた。
 いや、お前のターンやろがい。
 更に沈黙があり、そしてようやく目録氏が口を開いた。
「ローマの休日をご覧になったことはありますか?」
「あ?」

 ローマの休日の、あの有名なシーンをご存じですか? 若い記者とアン女王が、真実の口に手を突っ込む、あのシーンです。そもそも真実の口というのは直径約5フィートと9インチ、厚さは約7インチ、重さは約2714ポンドの円形の石で出来ています。表面に彫られているあの顔というのは海神トリトーネのものとされています。“彼”は、イタリア・ローマのサンタ・マリア・イン・コスメディン教会、その正面柱廊のいちばん奥に、今もなお実際に飾られているんです。
 私がローマの休日を見たのは11歳の時のことでした。母親に連れられ、確か昔の名作映画の企画上映を見に行ったんです。退屈でした。なにせ小学生ですから。映画は古いし、画面は地味だし、おまけに話の内容はよく分からない。僕はどうせならアニメか、ハリウッドの超大作を、それこそ戦闘機とか、宇宙船とか、そういうのが出るやつが見たいと言ったんです。でも母は聞いてくれませんでした。「こういう映画を見るのが、将来きっとあなたのためになるのよ」と言ってね。でも、あんまりにもつまらないものだから、僕はいつの間にか眠ってしまったんです。
 つぎに目が醒めたとき、スクリーンに真実の口が大きく映し出されていました。例の、あのシーンです。“彼”の二つの目は小さな丸いうつろで、口元はだらしなく弛緩して半開きになっていました。“彼”は何かに驚いているのか、あるいは呆けているようにも見えました。“彼”の顔は、ありとあらゆる感情の表出の中間点で、如何なる方向性をも持ち合わせぬ、表情筋の凪の境地にありました。顔のラグランジュ・ポイントとも言うべき地点です。
 その“彼”の口に、若い記者と女王が交互に手を突っ込む訳です。確かに、突っ込んでいるのは真実の口の中なんですが、あれは実質セックスだな。二人は真実の口を使って、乳繰り合っていた……乳繰り合っていた(彼はここで拳を小さく振り上げて自身の太腿をしたたかに二度叩いた)!
 でもまあ、そうこうしているうちに映画も終わりました。僕と母は映画館の入っていた商業施設のフードコートで簡単な夕食を食べ、家路につきました。
 そしてその夜、僕は精通したんです。

 「……えっ?」と、アダム・ドライバーが確かに洩らした。
 目録氏はアダム・ドライバーを見つめて、「真実の……真実の口、まるで真実の口みたいだあ……真実の口みたいだあ」と言った。目録氏の声はむやみやたらとあたりに響き、消えた。
 目録氏は私のほうに向きなおって、
「彼の口の、くち、口の中に、手を突っ込んでみてはいかがでしょうか?」
 と提案してきた。

 アダム・ドライバーの立体的な上唇と下唇のあいだの僅かな隙間(それでも顔全体としては3メートルの巨岩なので、ごく標準的な女性の手であろう私のそれは、難なく彼の口腔内へと侵入できた)に左手を突っ込んだ。もし生暖かかったら・ぬめぬめしていたらどうしよう、と心配していたが、そこには暗所に置かれた岩の内部にふさわしい、ひんやりと湿り気のある古い空気が溜まっていただけだった。手を突っ込む瞬間も、突っ込んだ後も、アダムは特に声を洩らさなかった。
 手を突っ込んでから、私はローマの休日のことを思い返した。あの有名なシーンなら私も知っている。確か記者のほうは、「嘘つきは手を噛み千切られてしまう」とか言って、世間知らずのアン女王──自らの身分を偽っている彼女──を脅していたはずだ。さて、ひるがえってアダム・ドライバーはどうなのだろうか? 彼は嘘つきの手を噛み千切るのだろうか?そして私は? 私は偽りの心を持っているだろうか?
 ……わあああああああ!
 と目論氏がいきなり馬鹿のような大声をあげて私の背中を押した。私の左手はアダムの口の中の、更に奥へと押し込まれ、左肩の手前まで彼の唇のあいだに突っ込まれたかたちになった。アダムは何も言わなかった。私は左腕をアダムの口の中に置いたまま、目録氏のほうを振り向いた。
 目録氏は無表情でちょっと肩をすくめ、「いや、驚かそうと思って……」と言った。
「映画と一緒ですよ。あったでしょう? こんなシーンが」
 無事に地上へ出たら、なにか硬いもので頭をぶち殴ってやろう、と思った。
 と、左の中指と人差し指が何かに触れた。岩? または石だろうか。固く、冷たいなにか。ちょうどいい、これでかち割ってやる。それを指先で引っかけるように揺らすと、アダムの口腔の奥で金属が擦れるような軽い音がした。私はそれを掴み、取り出した。
 出てきたそれはブリキで出来たクルマの玩具だった。かなり古いもののようだ。表面はすっかり剥げていて、大小さまざまな引っかき傷のようなものが見える。元々は赤の塗装がなされていたのだろうか? かすかにその名残が見える。車体は、筒にタイヤをつけたような、極めて質素なデザインだった。ビンテージ・カーとか、そういうタイプのものでは無いだろうか?
 私は後ずさりし、手にしたそれをしげしげと眺め、ついで目録氏にも見せた。目録氏は眼鏡のフレームを指で掴んで持ち上げ、私の手の中のビンテージ・カーをじっと凝視して、やがて「フフッ」と小さく苦笑し肩をすくめてかぶりを振った。何なんだよマジで。
 オゥ、オオゥ。
 とアダムが低い声を洩らした。二つの目が私の手の中の、ブリキのクルマに向けられていた。
 アダムは、オゥ、オオゥ、オッ、オッ、オオッ──とひとしきり呻いたあとで、
Piero──
 と呟いた。
 そして人面岩は不意に歌い始めた。それはこの地下の、訳の分からない暗がりに朗々と響き渡る、見事なテノールだった。

 Parigi, o cara, noi lasceremo,
 la vita uniti trascorreremo.
 De’ corsi affanni compenso avrai,
 la tua salute rifiorirà.
 Sospiro e luce tu mi sarai,
 tutto il futuro ne arriderà──

※1

 彼が歌い終えると、闇と沈黙が再び私たちの元に戻ってきた。それはずっしりとした塊の闇と沈黙だった。あたりの空気が突然、テンションの張り詰めた弦に変わっていた。それは音もなく徐々に高まった。そしてある一点で、ぷつん、と弾けた。
 ぴきっ。とアダムの顔に亀裂が走った。それは生え際の丁度中央あたりから始まり、額を斜めに横切り、彼の左眉と目と頬を裂き、カーブを描きながら唇を経て顎を裂いた。亀裂はそのまま、私と目録氏のあいだの地面を裂いて闇の奥(つまり、私たちがやってきたほう)へと消えた。
Dino──
 人面岩が呟いた。そして哭いた。けものが地をのたうつような、激しい慟哭だった。
 オオオッ、オオオオッ、オオオオッ──。
 足元の、ずっと下のほうから、ひどく大きな地鳴りがした。それは間もなく、まともに立っていられないほどの凄まじい揺れに変わった。アダムの左目のあたりが欠けて、地面に落ちた。

 私と目録氏は一心に来た道を走った。幾つもの鉄の扉を開き、階段を上り、また扉を開き、廊下を駆け、曲がり、駆けた。廊下の壁や天井が剥がれ、こちらへ倒れてきたり、目の前でずどんと床へ落ちた。照明が割れて明かりが消えた。階段を囲うコンクリートにはいくつものあからさまな亀裂が入っていた。
 揺れは続いていた。激しさは一切衰えを見せず、いやむしろ、ますます強くなっている気がした。「あっ──」と目録氏の短い叫びが後ろから聞こえた気がしたが、振り返る余裕はなかった。それきり、目録氏の足音も、息遣いも聞こえなくなった。
 幾度目かの鉄の扉、中二階分の階段、廊下、突き当りの角を右へ、左へ。目の前の廊下の先の突きあたりの、壁の下のほうに小さな矩形が見えた。「奈落」の店内へ繋がる、あの穴だ。激しい揺れで、廊下全体が中央をギュッと押されたハンバーガーのようにたわんでいた。縦長の長方形の廊下が、押しつぶされ、歪み、傾いていた。壁や天井が裂けて、そこから黒っぽいどろどろとした何かが、私のいる廊下へと流れ込んできた。柔らかく湿った、泥のような闇。僅かに残った明かりが、その泥に飲み込まれて、消えた。死に物狂いで泥をかき分け、なりふり構わずに穴へと這いずり込んだ。その瞬間、めきょっ、めこきょっ、と音がした。背後の廊下がぺしゃんこに押し潰されたのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。もう何も見えないのだ。
 私は「奈落」に繋がるはずの穴の中に横たわっていた。あるいは横たわっているはずだった。揺れはようやく収まった。光源がどこにもない。闇。まさか、「奈落」も先ほどの揺れで潰れてしまったのではないか? 私はかぶりを振って、その考えを頭から振り払おうとした。とにかく進むしかないのだ。
 穴は通ってきたときよりも狭くなっているように感じられた。腹ばいになって、腕の力で何とか匍匐前進するのがやっとの狭さだ。穴自体が崩れてきている? 私はスマートフォンを探した。ライトをつければ、少しは状況が掴めるかもしれない。けれどスマートフォンはどこにもなかった。この穴に逃げ込むまでのどこかで落っことしたのかもしれない。助けを呼ぶこともできない。すると右手が、何か固いものに触れた。それを何とか顔の前に持ってくる。どこをどう押しても光らない。少なくともスマートフォンではないようだった。少しひやっとして、固い。ところどころに傷のような感触。筒状のかたちに、丸いものがくっついている……ちょうど四つ。あの、ブリキのクルマだ。
 そのとき不意に、周囲の闇の中から、子供の声がした。

 ここがおうちだよー。

 その声には方向が無かった。どこかから、あるいは、だれかから、ここへ向けて放たれたものではなかった。声はただ声として、ただここにあった。ここに……。

 ここがおうちな訳がないだろう!

 私は死に物狂いで身体を捩り、両足で力の限り背後の闇を蹴った。腕を伸ばし、目の前の闇を指で掴み、前へ進んだ。泥のような闇が全身にゆっくりとまとわりついてきた。私はその泥の中を泳いでいた。泥の中は生温かく、心地良かった。少しでも気を抜けば、このままずっと眠ってしまいたくなる、そんな感触だった……否! 私はここから出るのだ!
 もはや息もまともに吸えず、腕も肩も太腿も、燃えるように熱くなってきた。瞼の裏がチカチカと光った。前へ、前へ、前へ……前へ!
 突然に身体の感覚が無くなった。私はいつの間にか落下していた……落下? 遥か下のほうに、真っ白な矩形が見えた。四角いかたちの光が見えた。私はそこへ向かって落ちていた。その四角は近づくにつれ、私の視界いっぱいに拡がり、眩し──。

 次に目を開けると、私は「奈落」の、カウンター席のスツールに座っていた。一人だった。少し離れた席に給仕の女が座っていた。女は煙草を喫いながら、テレビの画面をじっと見ていた。
 右手側、カウンターの奥の、突き当りの壁があるはずのあたりは相変わらず暗く、何も見えなかった。あの壁の下に、にじり口のような穴が今も空いているのだろうか? あるいは……。
 目の前のカウンターには空になったコーヒーカップが一つ、ミルクとシロップの入った容器、私のスマートフォン。そしてブリキ製の、クルマの玩具がひとつ。

 あれから、何度かひとりで「奈落」に行こうとしたのだけれど、ついにその店に辿り着くことはできなかった。
 ブリキのビンテージ・カーは、今も私の部屋の本棚の一部を占めている。

***

※1 ヴェルディ「椿姫」より「パリを離れて」

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