大谷翔平さんへ
貴方のいなくなったこの丸太小屋はとても寒々としています。窓の外では雪がしんしんと降って、世界は塗りつぶされたような闇の底に沈んでいます。物音一つしません。まるですべての生き物たちが死んでしまったよう。貴方の割ってくれた薪の最後の一束をいま使い切りました。じきに暖炉の火は燃え尽き、外の寒さと静けさと死が、私のいるこの小屋の中に入り込んでくるしょう。
私はかじかむ手でこの手紙を書いています。しかし貴方がこれを読むことはない。私たちは決して交わらない二つの直線だった。この丸太小屋で、ともに寝起きし暮らしていたあの頃でさえ、われわれが互いに最も近いところにいたあの頃でさえ、われわれという二つの線が交わることは無かった!
それでも私は信じています。この期に及んでいったい何を? それはつまりこういうことです。いつか、那由多の彼方、時の果てる処でわれわれは再び相まみえる。そして私は窓のそばのスツールに腰かけ、冬のはじめの透き通るような朝に、上半身裸の貴方が薪を割る姿をじっと眺めるのです。貴方のその広背筋のおこりを、斧を振り上げるたびに「キュッ」と引き締まるその大殿筋を。飽きもせず、いつまでも……。
*
暖炉の火は小さくなっていた。腰の炎氏の吐く息は白く、彼は幽かに震えていた。冬が、静寂と死が、光りなき千の眼が、彼の最後の炎が消えるときを今か今かと待っていた。
彼は書き上げた手紙を手に取り、じっくりと時間をかけて検分した。そしてそれを丁寧に三つ折りにし封筒へしまい込み、蝋で封をした。しばらくのあいだ、腰の炎氏はその宛名のない封筒をぼんやりと眺め、やがて暖炉の火の中にそれを投げ入れた。封筒は「ちりちり」と小さな音をたてて燃えた。腰の炎氏はその様子をじっと眺め、手紙が完全に燃えてしまうのを見届けてから、ようやく視線を外した。
腰の炎氏はテーブルの上のウィスキーの瓶を手に取り、残りをすべてグラスへ注ぐと一息に呷った。それからテーブルの天板に両手を置いて指を立てて、小指から親指にかけて順繰りに、波打つようなリズムで天板を叩いた。腰の炎氏の指先には天板にぶつかる「タン・タタン」という小さな衝撃があったのだが、その音はまるで聞こえてこなかった。それは実に奇妙な感覚だった。腰の炎氏は、自分の耳が急に聞こえなくなったのではないかとさえ考えた。音は生まれたそばからばたばたと死んでいった。小屋の外、世界の終わり、それが腰の炎氏をせっつき、手ぐすねを引いていた。彼は闇に向かって呟いた。
「そんなにせっつくことはない、直ぐだ。直ぐに僕もそっちへ行くんだから」
暖炉にくべる薪はもう無かった。大谷翔平が遺してくれた薪は全て使い尽くした。それでも冬は、腰の炎氏のいる森から立ち去らなかった。まるで袋小路に自ら進んで突っ込んで、そこをえんえんと歩き回っているようかのように、冬は腰の炎氏の頭上を鉛色のぶ厚い雲で覆い、次に森全体を突き刺さるような冷気で囲み、そして今、墨をありったけこぼしたようなとこしえの夜と共に、丸太小屋の窓の外から腰の炎氏を見つめていた。
腰の炎氏は徐に立ち上がり、戸棚から二つのものを取り出してテーブルに置いた。一つは球だった。使い古され、汗と土にまみれ、くすみ、あるいは木製バットによってたっぷりと痛めつけられ、長い旅路の果に腰の炎氏の戸棚に収まっていたものだ。その球にはかろうじて読み取れるかどうかといった、掠れた文字で何か書かれている──……の炎さん江、日付(西暦のようだが、読み取れない)、そして最後に翔平 拝──。
もう一つは旧いタブロイド紙に包まれていた。腰の炎氏がそれをテーブルに置くと、「ごとり」と硬い音がした。腰の炎氏は包みを剥いでくしゃくしゃに丸めると、それを暖炉へ放った。火がほんの少し元気を取り戻し、すぐに小さくなった。
包みの中身は回転式の拳銃だった。それが姿を見せると、小屋を満たす沈黙は一層重苦しいものに変わった。包みに一緒に入っていた弾は四発だった。腰の炎氏はもう一度テーブルの上をあらため、弾数に間違いがないことを確認し、下唇を突き出して肩をすくめた。四発。しかし何の問題もない。事を成すにはただの一発で事足りるのだから。
腰の炎氏は銃弾をテーブルの上に立てて並べて、しばしそれらを検分した。それから、そのうちひとつを選んで拳銃に込めた。撃鉄を起こすと「かちり」と音がした。次に球を手に取り、スツールごと暖炉へ近づいた。そしてしばらくのあいだ、球を右手から左手へ投げ、左手から右手へ投げてを繰り返した。それが一通り済むと腰の炎氏は立ち上がり、テーブルの拳銃の銃把を右手で握り、再びスツールへ腰掛けた。
火はあと数時間もすればすっかり灰になる。腰の炎氏はそれまで待つつもりは無かった。彼は左手で球を握りしめ、銃口を口にくわえた。鼻でゆっくりと息を吸い、その倍の時間をかけて吐いた。そして息を止め、目を瞑った。本当に何の音もしなかった。目の前の僅かな火が爆ぜる音も、彼自身の心臓の音さえもしなかった。彼は引き金に指を掛けた。最後に瞼の裏に浮かんだのはあの男の、完璧で究極の笑顔。
口の中で無音の銃声がした。
*
僕がつい先ほどまで見ていた夢について覚えているのは「無音の銃声がした」というただ一点だけだった。そしてそこに至るまでの一切の道筋は既に忘却の彼方へと消え去ってしまった。そのこと自体はひどく由緒正しい夢そのもののふるまいと言えた。そして僕の胸の中に、言葉にするのがとても難しい類の、ひどく奇妙な感銘が残った。
僕はしばらくベットの中で、その夢と、眠気と、体温が織り交ざった残骸にしがみついていた。そしてふと、左手の中に何かがあることに気が付いた。
それは球だった。使い古され、汗と土にまみれ、くすみ、あるいは木製バットによってたっぷりと痛めつけられた球がそこにあった。僕は思わず首を傾げた。昨日はバーにもよらず真っすぐ部屋に帰って、ウィスキーを一杯か二杯やった程度で、泥酔して誰かから、あるいは何処かから知らぬうちに持ち帰ったということは考えにくい。いったい何故、僕は球を握っているのだろうか? 球の表面には何か文字が書かれていたが、掠れていて読めなかった。
身体はまだ睡眠を欲していたのだが、肝心の眠気は何処かへ飛び去ってしまった。僕はベットの上で胡坐をかき、しばらくその球を眺め、右手から左手へ、また左手から右手へ交互に投げた。そして軽く宙にニ、三度投げ、キャッチしてを繰り返した。
「やれやれ」
僕は溜息をひとつついて、その球をベット脇のキャビネットの上に置き、洗面所へ向かった。
いい天気だった。空気は凛として冷ややかだが、降り注いでくる陽光は柔らかかった。もうじき、新しい季節がやってくることをこの世のすべてに感じさせるような、そんなあたたかさがそこにあった。僕はダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んで道を歩いた。右のポケットの中には例の球が入っていて、そのかたちの分だけポケットは膨らんでいた。僕は歩きながら、右手の指で球の縫い目を何度もなぞった。
自動販売機でコーヒーを買って、公園へと入った。両脇に木々が鬱蒼と生える曲がりくねった坂道を下ると、だだっ広い運動場へ出た。そこには駆け回る子どもたちが一組、親子連れ、犬の散歩途中の老夫婦がいた。犬はきわめて「シュッ」とした顔をしていた。僕は運動場の脇のベンチに腰掛けて、それらをぼんやりと眺めながらコーヒーを啜り、煙草を一本喫った。
子どもたちが自転車に乗って何処かへ去った。親子連れはジャンケンをし、グミ・チョコレート・パインのステップを踏みながら、そして老夫婦は「シュッ」とした顔の犬に連れられて、それぞれ去っていった。運動場には誰もいなくなった。僕は吸い殻をコーヒー缶に捻じ込んで、ベンチから立ち上がった。
空には雲のかたまりが幾つか、気持ちよさそうにぷかぷかと浮かんでいた。雲と雲のあいだの青空は澄み渡り、ずっと遠くの奥のほうで深い海の底へと繋がっていた。僕はポケットから球を出し、あらためて表面に書かれた文字を見た。何とか読み取れたのは「……の炎さん江」、西暦のような日付、そして「翔平 拝」の三つだった。
翔平。彼から、何とかの炎氏へ宛てられた球が今、僕の掌にある。
僕は右手から左手へ、左手から右手へ交互に球を投げた。つぎに宙に向かって球を放り投げ、キャッチした。最初は軽く、そして徐々に力を込めて、空に向かて投げた。球は小気味よく空へと昇り、たっぷり時間をかけて僕の手元へ落ちてきた。何度かそれを繰り返して、僕はついにめいっぱいの力を込めて、その球を空に向かって投げた。
球は音もなく何処までも空を昇っていき、やがて雲に隠れて見えなくなった。僕は球の飛んでいった先を、じっと飽きることなく見つめ続けた。
「随分と、飛んでいきましたな」
振り返ると気の良さそうな老人がひとり立って、僕と同じように空を眺めていた。老人は「ふおっふおっ」と言った。どうやらそれは笑い声らしかった。
「あれはもう、落ちてこないのではないですかな?」
「そうかもしれません」
ふうむ、と老人は呟いた。
「でも、いつかは再び、僕のところにかえってくる」
「いつか?」と老人が、不思議そうに僕に尋ねた。尋ねてから、「ふおっふおっ」と笑い、何処かへ去っていった。
そう、いつか。例え今は交わらなくても、那由多の彼方、時の果てる処。あの森の奥の丸太小屋の、透き通るような冬の朝に、僕たちは、再び……。
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