私にとっての朗読/太宰治『当選の日』メモ
・作品について書いてみよう
たまには朗読した作品について、
言葉にしておこうかと思い、書いてみます。
まぁ、この作品の「ここが好き」っていうのを、つらつらと書くだけですが。
私が「こんな気持ちで読んでます」と書いた所で、
朗読聞く方々には
(本来は「聴く」と書きたい所ですが、読んでる本人が「聴く」と書くと、何か偉そうかなと、「聞く」の方をよく使ってしまいます。が、もちろん「聴」いていただく、の意識で作ってますのよ。)
それがハッキリ伝わるものでもないと思いますし、
受け取り方が色々ある所が作品の醍醐味でもあると思うので、
「こんな気持ちで読んでます」は書くだけ野暮、
という気がしています。
まぁ、自分メモ、あとは、こういうの読んで楽しいと思っていただける可能性もなきにしもあらずかしら、
と思い、こうして書いてみたりします。
私はこんなカラーをベースにこの作品を読みました、みたいな事ですかね。
・様々な「朗読」が存在する
朗読へのアプローチも色々あって、
なるべく原作の味わいを損なわないために、
聴き手の想像の自由を奪わないために、
余計な色付けは良くない!
なんて事も良く耳にします。
ただ私は、せっかく私が読む訳ですし、
「私は」こう感じて読みました、こう受け止めました
というのを、なるべく声に乗せていきたい派でございます。
楽しい事は楽しく、悲しい事は悲しく読みたい。
「赤」と「青」は言葉の音色が違うはずだし、
「私は急いでいる」と「のんびり行こう」では言葉のリズムが違うはず。
そういう、感覚・感情・臨場感みたいなものを第一に考えて読んでいます。
そう読むのが私にとっては、読んでて一番楽しいから。
私が演劇やってるから、というのも大きいと思います。
正確に言葉を届ける事よりも、漂う雰囲気を、情を、
押し出していきたい。
極端な話、朗読は一人芝居だと思っております、私は。
人の数だけ朗読にも形があると思っていまして、だからこその
「西村俊彦の」朗読ノオト、と書いてる訳です。
「こんなのは朗読じゃない!」
という声に対する
いえ、これは「西村俊彦の朗読」なんです
という逃げの切り札でもありますね。
・太宰治『当選の日』を読んで
前置きが長くなりましたが、作品について、
書いていきましょう。
「黄金風景」で賞を受賞した太宰先生の、幸せな気持ちが描かれるエッセイ的な短編。ほのぼのしました。
自分が賞なんか取れるわけないんだ、というお決まりの卑屈さから始まり、
妻の母に「ビリから二三のとこです」
と言った時の、母の寂しそうな顔。
それがやたらに染みてしまう所、すごく好きです。
自分を落として語る事は自分には楽でも、他の誰かの悲しそうな顔を見ると、何か、ずしりとくる物がある。そんなこと、他の作品にも書いてたような気がする、太宰先生。
皆さんはそんな経験、ないですかね。
そこからの受賞報告、段々実感が湧いてきて、新聞を買いに走るところ。かわいい。
受賞の気持ちを中学合格発表の気持ちになぞらえて
「一瞬で、周囲の景色が、からっと晴れたような、自分が急に身の丈一尺のびて、ちがう人種になったような、」
気持ち、と文章にするセンス。
「合格」
あの時の気持ちを、こんなに鮮やかに言葉に写し取る。読んでるこちらまで嬉しくなってきます。
そして新聞を家に持って帰り妻とささやかに喜ぶ。妻の母もやってきて、報告する。
この辺の、信じられない出来事を伝える、コメディ感、ほのぼの感。
「太宰治=暗い」
みたいなイメージは強く存在しますが、
私は太宰作品のこういうとこ、好きです。
妻がラスト近くで
「このくらいの幸福が一番良い」
という件も、グッときますね。
そしてまた仕事に戻る太宰先生。
そこに、何か、充足感みたいな物が、漂っているような気がしました。
『当選の日』朗読はこちら
昭和14年5月
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