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幽霊易者

これは昭和35、6年頃の、私の古い記憶のお話です。

これまでにも何度か書きましたが、私は小学1年生まで岡山市内の中心部に住んでいました。
家の前の県道を渡ると、目の前は岡山千日前商店街のアーケードの入口です。
そのアーケードの入口の向かって左側には、地元の銀行の建物がありました。
石造りの立派な3階建てで、猥雑な商店街の町並みとは不釣り合いな、威厳のある雰囲気を醸し出していました。

そんな銀行の建物の横、アーケードを少し入ったあたりには、銀行に出入りする人を当て込んでか、昼間はいつも靴磨きの職人が数人座って客待ちをしていたのを覚えています。

午後3時になり、銀行の営業時間が終わると、革靴を履いた客は少なくなり、商店街には下駄や草履の音が響きはじめます。
靴磨きたちは三々五々店じまいをして、夕方になるとその同じ場所にはひとりの易者が店を開いていました。

幅90センチほどの机に大きく「手相・観相・易」と書かれた白布を被せ、その机上には、筒に立てられたパスタのような筮竹(ぜいちく)や虫眼鏡などの小道具が並べられています。

机の隅に置かれた「運命・鑑定」と書かれた小さな行灯には、ゆらゆらとローソクの明かりが揺らめいて、机上と易者の顔を不安げに照らしていました。

そして、机の向こうに座っていたのは、地味な着物に羽織、利休帽を被った昔ながらの、いかにも易者然とした出で立ちの50がらみの痩せた男性でした。

当時3,4歳だった私は、午後7時から8時頃に親に手を引かれて、商店街の中にあった銭湯に通っていたのですが、その行き帰りに見るこの易者の机の前にはいつも客はおらず、彼は独りぽつねんと往来の人々を眺めているのでした。

ある日のことです。
その日は母親が風邪を引いたかなにかで、私は父に連れられて、いつもよりかなり遅い、午後11時近くに銭湯へでかけました。
商店街に入ると、いつもどおり易者が店を開いているのが見えましたが、いつもと違っていたのは、その机の前に10人近くの行列ができていたことでした。

派手な赤い服を着た水商売風の女性を先頭に、軍帽に軍の白い病衣を着た傷痍軍人が数人、さらに焼け焦げたようなボロボロの服を着た男女が数人入り混じって、商店街の通路の半分ほどを塞ぐように列をなしていたのです。

ふだん見慣れない光景が珍しく、私は父に手を引かれながら、ずっと易者の方をよそ見しながら歩いていたのですが、ふと気がつくと列の最後尾にいた片足のない傷痍軍人の姿が目の前にありました。

しかし、父はそれを避けようともせずに、私の手を引いてずんずんと歩いて行きます。
〈あ、ぶつかる!〉と思った次の瞬間、私の身体はその傷痍軍人をすり抜けていました。
驚いて振り返ると列を作っていた人たちの姿はなく、易者の前には水商売風の女性が一人立っているだけでした。

あとから知ったことですが、戦時中はこのあたりは空襲で焼け野原になり、近くの川は火の手を逃れた人たちで溢れかえり、多くの犠牲者も出たということです。

亡くなった人たちは、いったい何を占ってもらおうとしていたのでしょうか。
いや、もしかするとあの易者自体この世の者ではなかったのかもしれない…そんなふうにも思えてくる、私の最も古いおぼろげな記憶のお話でした。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
テーマ回「占いに纏わる不思議話」
2024.10.20

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