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試し書き

今回は結子(ユウコ)さんという女性から聞いたちょっと不思議なお話です。

結子さんは小学生のときから読書と文房具が好きで、地元の大型書店に行ってはお気に入りの本や文房具を探すことを趣味にしていました。
大人になってからも会社帰りや休日に、週に2、3度は本屋に行き、好みの本や可愛い文房具との出会いを楽しんでいたのでした。

結子さんが本や文房具が好きになったのは、読書家で万年筆のコレクターでもあった父親の影響が多分にありました。
早くに母親が亡くなり、男手ひとつで一人娘の結子さんを育ててくれたお父さんは、幼いときから結子さんを本屋につれて行き、彼女が欲しがる絵本や文具などは、できるだけ買い与えてくれたのだそうです。

そんなお父さんでしたが、5年前、結子さんが29歳のときに突然帰らぬ人となってしまいました。
会社で急に倒れて、病院に運ばれましたが、知らせを聞いて駆けつけた結子さんの到着を待っていたかのように、その日の夜に息を引き取ったのです。脳卒中でした。

そのあとは悲しむ暇もなく、葬儀やその後のさまざまな手続きで慌ただしく日々は過ぎて行きました。
一人ぼっちの寂しさや日々の暮らしにも少しずつ慣れて、結子さんに以前のような日常生活が戻って来たのは、お父さんが亡くなってから3週間近くたってからのことだったと言います。

そんなある日、会社帰りの結子さんは久しぶりに本屋へ寄ってみようと思いました。
思えばお父さんが倒れてから、本屋には一度も足を運んでいませんでした。

久しぶりに嗅いだ新しい本の匂いに心癒やされた結子さんは、何冊か買って、いつものように文具売り場へと向かいました。
可愛らしい消しゴムやボールペン、新製品をチェックして、彼女の足は自然と万年筆売り場へと向かっていました。
小さい頃からお父さんに連れられて、それが何かもわからないまま覗き込んでいた高級万年筆のショーケース…。

お父さんとの思い出に浸りながら、万年筆を見ていた結子さんでしたが、ふとショーケースの上に置かれている試し書き用のメモ帳に目がとまりました。

どこにでもあるB6サイズのそのメモ帳には、意味のない直線や曲線、他愛もない落書きが試し書きされていましたが、紙の右端にそれらとは異質な、縦書きの文字が書かれていました。

【◯◯結子 箱】
そこにはきちんとした楷書でそう書かれてありました。
結ぶ子と書いてユウコ…〈◯◯結子〉は彼女のフルネームです。
結子さんは驚きました。

思いがけないところで自分の名前を目にしたのもさることながら、結子さんが驚いたのはその筆跡でした。
それは間違いなく亡き父親のものだったのです。

結子さんのお父さんは、若い頃にペン習字を習っていたとかで、とても端正なきちんとした字を書く人でした。
結子さんが小学校低学年の頃には、持ち物にひとつひとつ丁寧に名前を書いてくれて、友だちや先生からも褒められた思い出があります。

そんな懐かしい父親の筆跡で書かれた自分の名前を突然目にして、結子さんの目には自然と涙が溢れてきたのでした。
彼女はその試し書きをそっと破りとって帰宅しました。

帰りの道すがら、結子さんの頭の中では、あの文字はいつ書かれたのかという疑問が駆け巡っていました。
〈父が生前に書いたものなのかしら?〉
いや、いくらなんでも3週間以上、メモ帳の同じページを試し書き用に置いておくことは考えられません。
彼女の名前の周囲に書かれた、ほかの試し書きがそれほど多くないことからも、長い時間置かれていたとは考えにくいものでした。

〈すると誰か別の人が書いたの?〉
しかし、これも見慣れた特徴のある父親の筆跡であることから、誰か別人が書いたとはとうてい思えません。

そう考えていくと、にわかには信じがたいことですが、あの文字はお父さんが亡くなったあとに書いたとしか考えられないのでした。
〈父の幽霊が書いたわたしへのメッセージ?
いったいなんの目的で?最後に書かれた「箱」って何のこと?〉
さまざまの疑問が結子さんの脳裏を駆け巡りましたが、特に「箱」についてはまるで見当がつきませんでした。

家に帰って食事や入浴を済ませたあと、リビングでテレビもつけずに破りとってきた試し書きのメモをぼんやりと眺めていた結子さんでしたが、不意に自分の名前を呼ぶお父さんの声が聞こえたように感じて、隣の部屋を覗きに行ったのだそうです。

リビングの隣はお父さんの書斎でした。
亡くなったあともそのまま手つかずの状態で、最近では忙しさにかまけてドアを開けることも稀になっていました。

ドアを開けて明かりをつけた結子さんの目は、部屋の片隅に釘付けになりました。
〈箱ってこれのこと?!〉
そこには一つの段ボール箱がありました。
葬儀のあとすぐに、お父さんの部下だった人が、デスクにあった遺品をまとめて持って来てくれたものなのですが、当時は悲しみがいっぱい詰まっているように思えて、開封することなくそのまま置いておいたものでした。

さっそく箱を開けてみると、雑多な小物に混じって、リボンのかかった小さな包みがありました。
包みの中には、結子さんの名前が入った白い軸のモンブランのボールペンが入っていたそうです。

「それが、わたしの30歳の誕生日の前日のことで、包みを開けたときはちょうど夜中の12時を少し回ったところでした。
父はどうしても誕生日に渡したかったんでしょうね」
結子さんはそう苦笑まじりに言いました。

そして、これはあとから知ったことですが、そのボールペンはモンブランの「ミューズ、マリリン・モンロースペシャルエディション」というモデルで、1本10万円以上する品でした。

「万年筆好きだった父が、あえてボールペンを選んだのは、これからの時代、万年筆よりもボールペンの方が使う機会が多いだろうという、父なりの心遣いだったんだと思います。

30歳という区切りの年に、高価なボールペンを贈ることで、これから先は大人の女性の自覚をを持って、しっかりと生きていけという、父からのメッセージだったんだと思います」
そう言って結子さんはこの話を終えました。

ちなみにそのボールペンは、お父さんの万年筆コレクションとともに、結子さんの手元に保管され、今でも大切に使われているそうです。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
怪異体験受付け窓口 百二十八日目
2024.10.26

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