マスク
これは今年の春、病院勤務の50代の女性からら聞いた、彼女の息子さんの体験談です。
その息子さん(仮にAさんとしておきます)は20代独身で、東京の会社に務めています。
自宅は埼玉県にあるワンルームマンションで、毎日朝早く起きて、片道2時間近くかけて、都心の会社へ通勤していました。
しかしコロナが流行り始め、Aさんの会社でもその年(2021年)からリモートワークが導入されて、週に一度の出社でよくなったのだそうです。
行き帰りの通勤にかかっていた時間がなくなり、朝寝や夜ふかしができるようになって、リモートワークの恩恵を満喫していたAさんでしたが、在宅時間が増えると同時に、部屋の汚れや乱雑さが気になりはじめました。
忙しさにかまけて、一年ほど前に今の部屋に越してきてからは、ゴミだらけにはなっていないものの、満足な掃除や片付けはできていなかったのです。
Aさんの部屋は典型的なワンルームマンションの間取りで、玄関を入ると廊下、その左右にキッチンやバス・トイレがあり、廊下の突き当りが八畳ほどの洋間になっています。
部屋の正面には大きな掃き出し窓がひとつあり、その先は狭いベランダになっていました。
部屋の掃除を終えたAさんは、その勢いでベランダもきれいにしようと考えました。
思えばこの部屋に越してきてから、掃き出し窓は一度も開けたことがありませんでした。
窓の向こうは奥行き60センチほどの、エアコンの室外機で半分は塞がれてしまっているような狭いベランダで、掃除といってもたいしたことはなさそうです。
男の一人暮らしで、部屋も3階にあることから、掃き出し窓にはレースのカーテンだけが吊るしてありました。
いつも閉めっぱなしになっているそのカーテンを勢いよく開けたAさんは、一瞬〈おやっ?〉と眉を寄せました。
それは、窓ガラスの一部が妙に汚れていたからでした。
不審に思いながら窓を開け、網戸を開けたAさんは、さらに不可解なものを目にしました。
ベランダに白いマスクが10枚ほど落ちていたのです。
よく見るとどれもうっすらと口紅のあとがついたマスクが、狭いベランダの窓際に積み重なるように落ちています。
Aさんは驚いてベランダの上下左右を見回しましたが、人が侵入したような形跡はなにもありませんでした。
あれこれと考えた末、カラスのいたずらか、ハトが巣作りの材料に咥えて来たのではないかと結論づけて、そのときはそれほど気にしなかったそうです。
それからしばらくたったある日のこと。
その日は三連休の初日で、Aさんはいつもの就寝時間を超えて、深夜までゲームに熱中していました。
ゲームが一段落して時計を見ると午前2時を過ぎていて、夕食もろくに食べずにゲームをしていたため、空腹であることに気がつきました。
冷蔵庫を覗いてみても、すぐに食べられるようなものがなかったため、Aさんはしかたなく近所のコンビニへ買い物に行くことにしました。
歩いて5分ほどの距離なので、部屋の明かりを消して、スマホだけを持って出かけたそうです。
やがて20分ほどして、マンションの前まで帰ってきたAさんは、なにげなく3階の自室の窓を見上げました。
すると部屋のベランダに誰か立っていることに気がつきました。
驚いて何度も見返しましたが、間違いなく自分の部屋のベランダです。
月明かりで、立っているのはどうやら白っぽい服を着た髪の長い女性らしいとわかりました。
その女が、部屋の中を覗き込むようにして、こちらに背を向けて立っているのです。
Aさんはとっさに〈泥棒か?!〉と思い、急いでマンションの階段を駆け上がり、自室へと向かいました。
相手が女性らしいことと、元剣道部で腕には多少自信があったAさんは、自分の手で泥棒をつかまえてやろうと思ったのです。
部屋の前まで駆け戻ったAさんは、そっとドアを開け真っ暗な室内に入ると、防犯用に玄関に置いていた竹刀を手にとり、部屋の明かりをつけて一気に窓へと駆け寄りました。
レースのカーテンを勢いよく引き開けて、窓の鍵に手を伸ばしたところでAさんは凍りつきました。
窓の外にに立っていたのは、白っぽいネグリジェのようなものを着て、ボサボサの長い髪に白いマスクをした年齢不詳の女性でした。
その女はAさんと目が合うと、嬉しそうに目を細めながらゆっくりとマスクを外しました。
そのマスクの下からあらわれたのは、真っ赤な口紅を引いたぬらぬらと分厚い口唇でした。
女は微笑んでいるのか、その顔を不気味に歪めながら窓ガラスへと近づけてきます。
そして、顔を押し付けるようにしてガラスにその口唇を押し当てました。
その分厚い赤い口唇は、まるで二匹の赤いナメクジが這うようにゆっくりと動いていき、やがてその隙間から鮮やかなピンク色をした長い舌が現れて、窓ガラスを舐めはじめたのでした。
あまりの光景に、Aさんは窓の鍵に手を伸ばした姿勢のまま、女の口元から目が離せず固まってしまいました。
時間的には数十秒ほどだったそうですが、Aさんがはっと気がつくと女の姿は消えていたそうです。
恐る恐る開けた窓ガラスには、女が舐めた痕がくっきりと残っており、ベランダには口紅がついたマスクがひとつ落ちていました。
Aさんは最初、現実に生きている人かと思ったそうですが、3階のベランダから突然消えたことや、網戸の存在を無視して窓ガラスを舐めていたことなど、冷静になって考えてみるとどう考えてもこの世の者ではないと考えて、すぐにマンションを引き払ったそうです。
しかし、その後も路上に落ちているマスクを見るたびに、あの女の赤い口元を思い出して鳥肌が立つのだという、そんなお話でした。