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腕枕

これはMさんという男性から聞いた、彼の学生時代のお話です。

昭和50年頃、東京の大学に進学したMさんは、上京して一人暮らしをはじめました。
とにかくお金がなかったので、できるだけ家賃の安いアパートを探して、見つけたのが築30年近いの2階建ての木造アパートでした。
6畳の和室でトイレは共同、風呂なしの物件で、家賃は2万5千円だったと言います。

Mさんの部屋は、玄関の階段を上がった、薄暗い廊下の突き当りにある角部屋でした。
薄茶色に黄ばんで擦り切れた畳に、これまた黄ばんだ押し入れの障子が年季を感じさせます。
窓枠は木製で、窓の鍵も差し込んでぐるぐると回すタイプの、本当に昔ながらの一室でした。

そんな部屋に越してきたMさんでしたが、実家ではベッドで寝ていたので、畳に布団を敷いて寝るのはどうも落ち着かず、よく眠れませんでした。
それに毎日の布団の上げ下ろしも面倒だったので、考えた末に押し入れの上段をベッドがわりにすることにしたのだそうです。

押し入れの上段に布団を敷いて、枕元に電気スタンドと携帯ラジオを置くと、子どものころに憧れた隠れ家的な雰囲気も味わて、Mさんにとってはとても心地よい寝床になりました。

当時のMさんの生活は、昼間は学校、夕方からはアルバイトで、帰りに銭湯に寄って、部屋に帰戻ってくるのはいつも夜の10時頃でした。
遅い夕食を食べて、深夜0時頃には押し入れのベッドに潜り込んで朝まで爆睡するのが常だったそうです。

そんなMさんでしたが、7月のある日の夜中、ふと目が覚めました。
〈こんな時間に目が覚めるなんて珍しいな。ついでにトイレにでも行ってくるとするか〉
そう思ってMさんは身を起こそうとしましたが、首がわずかに持ち上がった程度で身体はピクリとも動きません。

〈うわっ、金縛りかぁ。俺、かなり疲れてるのかなぁ〉
そんなことをぼんやりと考えながら、しかたなく仰向けの状態のまま寝ていたMさんでしたが、ふとあることに気が付きました。
左腕の様子がおかしいのです。

彼は狭い押し入れの中に仰向けに寝て、左腕をほぼ真横に伸ばした状態で金縛りにあっているのですが、その姿勢だと本来なら押入れの奥のベニヤ板の壁に手が当たっていなければおかしいのです。
しかし、今はなぜか壁に当たることなく、腕をまっすぐに伸ばせているのです。

Mさんはわずかに動かせる首を、せいいっぱい左に傾けて、自分の左腕がどうなっているのかを見ようとしました。
そうやってなんとか見ることが出来たのは、左腕の肩口から先を覆っている黒い靄(もや)でした。

どうやら自分の左側、本来なら押入れのベニヤ板の壁があるあたりが、夜の闇よりもなお暗い漆黒の靄に覆われていて、その中に左腕をまっすぐに突っ込んだ状態で寝ているようなのです。

その靄が何なのか、どうしてそのような状況になってしまったのか、まったくわからないままどれほどの時間がたったのでしょうか。
ふいにMさんの左腕に触れるものがありました。
サラサラとした感触が靄の中の左腕をサッと撫でるように通り過ぎたのです。

〈髪?〉
Mさんは咄嗟にそう思いました。
まさに長い髪が剥き出しの左腕に当たる感じでした。
そして、それに続いてずっしりとした重みが腕に乗ってきました。
重みは左腕の肘の内側から先あたりにかかっています。

〈これは…まさか腕枕?〉
意外な展開にMさんは混乱しましたが、身体は相変わらず金縛りのままで動かすことが出来ません。
左腕から伝わってくる、少しの湿り気と温かみを帯びた何者かの頭部とおぼしき感触と重みを感じながら、彼はいつしか眠ってしまっていたのでした。

翌朝目覚めて、改めて押し入れの壁を確認しましたが特に異常はなく、Mさんはあれは夢だったのだと思ったそうです。
しかし、それから後も疲れた状態で就寝すると、きまって夜中に金縛りにあい、何者かが腕枕をするという状況が続いたのでした。

そして、そんなことを何度も体験していると、しだいに慣れっこになってしまったのだとMさんは言います。
〈ただの金縛りと腕枕だけで、それ以外は特段何をされるでもなかったしなぁ。それに…〉
そう、それにMさんはいつしか、左腕に頭を乗せてくるのが、自分と同じ年頃の可愛い女の子だと勝手に想像して、まんざらでもない気がしていたのです。

そうこうしているうちに年が明けて、Mさんにも現実に彼女と呼べる存在ができました。
そして付き合い始めてみて、改めて今住んでいる部屋が、彼女はおろか友達さえも呼べるようなものではないこと気が付きました。

〈越してきてもうすぐ1年になるし、バイト代の貯金も少しできたから、ここらでもう少しましな部屋に引っ越そうか…〉
そう考えたMさんは転居を決意したのでした。

そして、マンション情報や住宅情報誌を読み漁りながら眠りにつく日を何日か続けたある夜のこと。
Mさんはまた、金縛りと腕枕の状態に陥りました。
〈この腕枕とももうすぐお別れだなぁ〉などと、妙な感慨にふけっていたMさんでしたが、その夜はいつもと様子が違っていました。

靄の向こうの何者かは、おとなしく腕に頭を乗せてくるのではなく、Mさんのパジャマの袖をまくりあげて、愛おしそうに素肌の左腕を撫でさすっているのです。

しばらくはその状態でしたが、次の瞬間彼の左腕に激痛が走りました。
あまりの痛みに全力で腕を引き抜くと、金縛りは解けましたが、彼の左腕には明らかな噛み跡があり、血が流れでていました。

思いがけない事態に、初めて恐怖を覚えたMさんは、そのあとは一睡もできませんでした。
そして、次の日からは部屋には戻らず、早急に新居を探して引っ越したのだそうです。

「あれからもう何十年もたちますが、あのときの噛まれた傷跡はいまでも残ってるんですよ」
そう言ってMさんはシャツの袖をまくりあげて見せてくれました。

そこには確かに人間の歯型のような痕がついていましたが、その大きさは優に普通の人の倍以上ありました。
はたして彼は、どんな者に腕枕をしてやっていたのでしょうか?
…という、そんなお話でした。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
怪異体験受付け窓口 百三十三日目
2024.12.7

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