握手
これは元路線バスの運転手をしていたAさんという男性から聞いたお話です。
Aさんが務めていた会社では、バスが停留所から発車するときには、ウインカーと同時に運転席の横のスライド窓をあけて、右手を少し出して後続車に発車の合図をする決まりになっていました。
ある年のお盆のころ、まだ明るさの残る午後7時ごろのことです。
その日はとても蒸し暑く、暑がりのAさんは規則である白い手袋をはめずに運転していたのだそうです。
バスはD寺前のバス停にさしかかりました。
ふだんは乗降客の少ないバス停でしたが、そのときは珍しく降車ボタンが灯り、バス停にも一人の乗客が待っていました。
バス停に着き、乗客の乗り降りを確認して発車しようとしたときでした。
窓から出したAさんの右手を、いきなり握りしめてくるものがあったのだそうです。
まるで握手をするかのように、Aさんの右手を握ってきたのは、とても冷たく、それでいてじっとりと湿った、明らかに人の手の感触だったと言います。
Aさんは驚いて窓の外を見ましたが、誰もいるはずがありません。
ワッと小さな声をあげて、慌てて手を引っ込めたAさんですが、長い間、握手してきた手の感触は消えなかったということです。
Aさんはその日以来、どんなに暑い日でもしっかりと手袋をはめて乗務するようになったのだという、そんなお話です。
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