楽しいって、もしかしてそういう意味ですか?
「あー、楽しかった」
隣の席から声が聞こえてきた。お年を召した女性と、その人より少し若いもう一人の女性が、帰り支度を始めていた。
娘と母か、義母か。そう推し量ったのは、若い方が「お父さん」のことを話題にしているのが細切れに聞こえてきていたからだった。「お父さんすっかり耳が遠くなって」という具合に。お父さんはお義父さんかもしれないとは思った。でも全然違う、思いもよらない関係かもしれない。
いずれにしても、愚痴交じりに話していたのは若い女性の方だった。老婦人は聞き役に徹していた。少なくとも僕がその喫茶店に入り、隣席についたときにはすでにそのような均整の下で会話が交わされ、空間を満たして、ときには僕のところにまでその白波を寄せていた。
ただ人の言葉を聞いているだけで、楽しいといえる。そんな気持ちに一瞬心を奪われた。
幼い頃から、一人になると安心した。それでいて人気のないところは苦手だった。前者は人に傷つけられることを恐れていたから。後者は寂しさからだった。それなりに年を取った今となっては、どちらの心境ともある程度は折り合いをつけて生きている、と思う。そのように信じたい。
一人になるのが怖い人というのは僕ばかりでなく、たくさんいる。ひとり旅とかソロ活とかが明るいイメージで語られるようになったのはまだまだごく最近のように感じる。それらの活動を推している雑誌やネット記事でさえ、「思い出はシェアしよう」と露骨に示してくる。一人でいることが肯定されたというより、一人でいるようでありながら他人と繋がることはできるんだよ今の世の中はと知らしめてくれているわけだ。
朝日新書の『永続孤独社会』では、同著者が10年前に上梓した『第四の消費 つながりを生み出す社会へ』を元に、日本人の消費の傾向を戦間期から2010年代まででまず四段階に分析し、続く五段階目への足掛かりとしている。
ざっくりと言えば、1.大正期におけるモダン志向、2.戦後から昭和中期までの大量生産及び消費、3.昭和後期からバブル崩壊の頃までの個性重視、そして4.平成から2010年代まで続く経験重視、「モノからコトへ」という価値観だ。 自分の所有物をシェアしようという価値観もこの四段階目の消費傾向に依拠している。
五段階目が何なのか、実はまだ読んでいる最中なので把握できてないのだが、タイトルからして孤独、分断がテーマになるのだろう。人々はシェアすることに疲れ、自らの孤独を癒すことに注力する……という話かなあと、今のところ予測している。(全然違かったらどうしよう)
シェアの限界は、確かに感じる。
インターネットに置いてあった自分のペンネームによるアバターが、本来の自分を元にしながらそれを拡張したり隠蔽したりして見せたいものだけを取り繕う。
かつて電脳世界とかサイバー空間とか言われていた虚構の世界。そこで呼吸をするためには何か媒介が必要だった。存在を確立するための媒介として、僕は小説を選んでいた。フィクションの世界を生きるためにフィクションを選ぶというのは、今にして思えばややこしい話だった。
生成したフィクションを物理的な書籍として編み出しリアルのイベントで頒布する。僕という個人をブラックボックスにし、出力されたアバターが人と交わりを持つ。それは面白かった。何より僕のことを忘れていられるから、ハマるには十分な魅力であり実感だった。
しかし結局のところ、その魅力はやがて疲れとなって溜まっていったらしい。虚構を離れているうちに自分の身の回りを整理しているうちに、僕の自意識は僕自身の中に戻ってきた。伸びきっていた紐帯をまた手繰り寄せた感じだ。
そんな抽象的な旅行を経てみると、不思議なもので、蔑ろにしていた僕自身のことを、前よりずいぶんと受け入れられるようになっていた。相変わらず生きにくくてしようがないが、生きていかざるを得ない僕自身だ。
言葉にならない生きにくさがあった。前々からあったし、今もどこかしらにある。それらを形にしたら、それはすなわち愚痴だろう。真に生きている人だけが愚痴を吐くことができる。
楽しいって、もしかしてそういう意味ですか?
問いかけを思いつくと、緩慢なインタビュアーは顔を上げる。インタビュイーは当然ながらとっくに店を後にしていた。店員によって吹き清められた隣席は静かなもので、だけど店内は相変わらず、膨大な、生きている人の声で賑わっていた。