皇居の電線は俺が張ったんだ、と祖父は語った
祖父が亡くなったのは2年前の年明け間もないときだった。
唐突な報せだったが、年の瀬にあいさつした際に随分苦しそうに呼吸をしていたので、予感はあった。コロナ禍の最中だったので、病院に搬送されてからすぐに隔離されてしまった。そのせいで死に目に会えなかったと、未だ健在な祖母がたまに恨み言をする。
息を引き取った祖父の寝姿はとても安らかだった。その様子を見て、もう何年、何十何年も祖父の穏やかな顔を見ていなかったことに気づいた。祖父の印象には、厳めしい顔で苦しそうに咳き込んでいるイメージが強く結びついていた。祖父は苦しみから解放されたように思えた。とても葬儀の場で口に出すわけにはいかなかったが。
祖父母の住まいは埼玉県の秩父市にあった。一時期、職場に近いという理由でその家に間借りしていた時期があった。諸々の理由で一年足らずで引っ越すことになったのだが、その直前に、祖父の昔話を聞く機会があった。
秩父の生まれである祖父は、昭和の始め、10代の頃に東京に移り住んだ。まだ代官山がほんとうに山だった頃だと聞いた。やがて洪水が起きて、雑木林が消えたところに次々と建物が立ち並んだという。この洪水がいつの時期なのか、後から調べてもわからなかったが、洪水の源は暗渠化される前の渋谷川のことだろう。
やがて祖父は電気関係の技師となった。皇居の電線は俺が張ったんだ、と祖父は語った。嬉しげに綻んだ口元には涙が幾筋も流れていた。気圧された。祖父は普段、昔話どころか、自分が何を考えているかもあまり話さない人だった。僕は何も言わずに聞くに徹した。
祖父は世田谷で下宿していた。戦争になり、長引いて、周辺は焼夷弾で焼かれた。どの空襲でというのを軽く調べても、とにかく数が多すぎて手に負えない。仕事どころではなくなり、祖父は故郷である秩父に疎開することになった。
秩父盆地の南東に武甲山と呼ばれる山がある。その石灰質の岩山がコンクリートの原料となったため、今では山頂部分がすっかり削られ、中はアリの巣のように空洞になっている。戦時中ではまだ、武甲山はこんもりとした稜線を描いていた、らしい。
東京が空襲に遭う日は、武甲山の奥に広がる夜の闇が真っ赤に光っていたらしい。現代において特急でおよそ二時間の距離、武蔵野台地から奥武蔵、外秩父一帯へと広がる半径凡そ50kmの空が赤く染まっていた。そのまま円を描いたとすれば関東平野の全てが覆えることになる。途方もない。わざわざ原爆など落とさなくとも、地上を地獄にすることは容易い。これが祖父からたった一度だけ聞いた戦争の話となった。
人付き合いが苦手な祖父は、結局戦争が終わっても、会社勤めはできなかった。戦後また東京に戻った祖父が、目黒にあったという土地を手放し、三度秩父に戻り人目を避けるような山麓に居を構えなければならなかったのか、それは最後まで教えてくれなかった。人を簡単に信じるなと、度々祖父から言い聞かせられてきていた。惜しいことをと思わなくもないが、そこはまあ、知らなくていいことなのだろう。