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【web夏企画】Aちゃんの団扇【掌編小説】

 一棟の家屋が金属の骨組みに取り囲まれていた。道路に面して青縁白地の看板があり、解体工事が三日前から七月末まで続くことを伝えていた。
 骨組みの向こうに佇む切妻屋根の二階建てに見覚えがある気がした。そのこと自体が不思議だった。通っている高校への通学路にあるならともかく、ビニールハウスと防風林と手つかずの空き地とが点在するこの辺りは、何にもやる気が起きない週休日の空隙を強引に埋め合わせようと無心に自転車で走り回りでもしない限り、ほとんど寄りつくことがない。
 中学、あるいは小学校の同級生の家だろうかと、記憶を巡らせているうちに、何かをつかんだ感触があった。朧げな輪郭が記憶の縁に浮かんでくる。名前も姿も思い出せない、少年、あるいは少女。僕らが出会ったのは、人の性差に重きを置いてコミュニケーションを取り始めるよりもずっと前のことであったらしい。
 車のクラクションが鳴った。すぐ脇に白のくすんだセダンがいた。相手の顔も見えないまま頭を下げて、電信柱の端に避ける。車はエンジンを吹かして狭い道を踏み潰すように走っていった。
 
   ○
 
「それはAちゃんのお家でしょう」
 母さんの口にした名前からは、アルファベットの最初の文字が思い浮かんだ。
「そんな友達いた?」
「薄情な。あんたが幼稚園に入ったばかりの頃に面倒見てくれた年長さんよ」
 幼稚園は僕の家とあの工事現場とを線で繋いだときにちょうど真ん中の位置にある。そこに通っていたのは確かな事実だけれど、今そのときのことを何か思い出せと言われても、ぼんやりと滲んだ庭の景色しか浮かんでこない。交わされた言葉もほとんど記憶に残っていない。名前となるとなおさらだった。
「あんなに仲良くしていたのに忘れるなんて」
「無理言わないでよ。三歳だよ」
「つい最近じゃない」
 十四年の月日が圧縮されてしまったところで、玄関から「ただいま」という低い声が届いた。父さんの声だ。母さんが洗濯物を畳むのを中断して玄関に向かい、リビングの扉を開いたところで足を止めた。
「せっかく思い出せたのだから、憶えておいてあげなさい」
 そう言うと、母さんは廊下を歩いていった。父さんとの会話は壁に阻まれて聞き取れない。僕は程よく冷めたコーヒーを飲み干した。
 幼い頃、父さんが飲んでいたコーヒーに口をつけて、ひどく咳き込んだことがあった。苦味も酸味も気に食わず、こんなものを飲み干す父さんはどうかしていると思った。あのときの僕は三歳か、もう少し大きくなっていたか。父さんを見ていたからというわけではないけれど、今ではコーヒーは苦もなく飲める。いつからそうなったのかはっきりしない。はっきりしないまま三歳の僕は記憶とともに遠く離れてしまっていた。
 
   ○
 
 断捨離という言葉を最近知った。不要な物を捨てて、自分の生活する空間の風通しを良くすることだ。僕はその言葉がもたらす開放的なイメージに憧れた。早速自分の部屋でも試してみようと思い、必要なものと必要でないものとを区別するための箱を買って、一回だけ実行した。空間はそれなりに広がり、瞬く間に別の何かで埋められた。半年後の年末までこの状態は続く。悪化はしても改善はしない。僕のことを一番良く知っている僕がそう思うのだからまず間違いないだろう。
 その断捨離の際に、長年放置していた押入れに手を入れた。中学校、小学校時代の教科書やプリント、工作物の残骸、その他有象無象の物たちを籠めた段ボールをひとつひとつ点検して、「不要」箱に詰めるなり、紐で括って外に出すなりしていた。
 そのときに一枚の団扇を見つけた。竹組の片面に貼られた、夜に上がる赤い花火の写真は、すっかり色褪せていた。団扇として機能するかも怪しい、カビの匂いを放つそれを「不要」箱に入れなかったのは、花火の裏面にある祭のお知らせの縁に人の名前があったからだ。あづちえいみ。六文字全てがひらがなでつづられたその名前には聞き覚えがなかった。記憶の時期を遡っても、該当者はいないように思われた。知らない子どもの団扇を持って帰ってきてしまって、捨てることもできないまま押入れに封じ込めたものだとばかり思っていた。母さんに尋ねてみて、Aちゃんの本名があづちさんだとわかった。何故聞くのかと尋ねられたけれど、罪悪感を無闇に広めるのが嫌で、彼女の団扇を持っていることは言わなかった。
 あづちの「あ」もAと結びつけることができるけれど、三歳児の感覚としては「えい」の方からAちゃんなのだろう。アルファベットを勝手に当てはめたのは高校生の今の僕だ。Aちゃんのあだ名は今では全く違うものになっているのかもしれない。建物を取り壊すくらいなのだから、Aちゃんがこの街に来ることももうないのだろう。名前の読み方がわかったところで、今のAちゃんを知ることはできないし、少ない手掛かりを手繰り寄せるまでして古びた団扇を返すのは却っておかしい。
 Aちゃんの団扇は捨てることもできないまま、しばらく本棚の上に無造作に置いてあった。破れてしまいそうなので上に物を置くこともためらわれた。本の間に立たせて仕切りにしようとしても倒れてしまうから無意味だった。本来の用途として涼を取るにもすでにクーラーが5月半ばから窓際で唸りを上げている。やはりどうしても団扇は僕の部屋には不要なものだ。捨てられないならば、返すほかなかった。
 
   ○
 
 日差しの熱が和らいで、厚い雲が立ち昇っているのに気づいた。雲の底面に灰色が染み、膨らみを増していく。見えない塊になって風が押し寄せて来る。庭木や生垣が不安そうに擦れ合っていた。ペダルを踏む足が力を欲し、人通りの少ないこの脇道にも勾配があることを教えてくれる。道はカーブを描いて先細りし、自転車で進むのに不安を覚える幅になったところで県道に接続する。ひん曲がったまま放置されているガードレールの合間では、ヘッドライトを灯し始めた車が次々と速度を出して横切っていく。歩道で意もなく合流した老人が僕と同時に歩道橋に足をかける。しかし老人はものも言わずに立ち止まった。自転車をスロープに載せて歩く僕との距離が空いた。振り向けば老人は空を見上げていた。濁った瞳を瞬かせて、「雨」と喉を振るわせた。空から降るしずくを感じてつぶやいたのだろう。冷静に考えるまでもなく原因と結果は結びつく。しかし、言葉と同時にアスファルトを点々と染め抜き始めた雨を見ると言葉がそれを引きつけたようにも思えた。傘を差した僕は歩道橋を降りてからも自転車には乗らず歩くことにした。籠に載せた鞄を優先して雨を防いでいるので、サドルもメタルフレームも容赦なく濡らされる。今日は夏至だった。空の向こうの太陽が張り切って今年一番の光量を放つのに、頭上の雨雲ばかりがそれを受け止め吸い込んで、代わりに街を満遍なくずぶ濡れにしていた。
 解体工事の現場には灰色の養生シートが骨組みの合間に張られていた。「防塵」「採光」とあるのはシートの効能なのだろう。緑瓦の切妻屋根もヘアピンを描く二枚の長窓も見えない。塀だけは先に片づけられたらしい。雑草に侵食された玉砂利と飛び石の途中で養生シートの切れ目があった。立ち入り禁止の看板が行手を阻んでいるけれど、傍らを通っても警報が鳴るようなことはなかった。監視カメラでもあったら通報されるのかもしれない。養生シートの縁には金属製の輪が並び、いくつかは釦になって留まっていたが、潜るのに支障はなかった。
 建物の少なくとも入り口部分はまだ以前の形を保っていた。少し戸惑ったものの手を掛ければ扉はすんなり開いてくれた。
 上がり框の先に板張りの廊下が延びている。右手に階段があり、螺旋を描いて二階に延びている。スイッチを押したけれど電気はつかなかった。あづち家の人たちはもちろん、解体作業員の姿も見えない。雨が降ると作業を中断するとか、何かの手続きがまだ終わっていないとか、理由があるのかもしれない。床にはホコリが堆積していて、歩くと足跡がついた。ホコリの分だけ僕の靴下が汚れていった。
 廊下を抜けると開けた部屋に出た。もしもここがリビングなら、構造は僕の家に似ている。ただしあづち家には、大人の背丈にも及ぶ大きな窓が南側一面に広がっていた。青いシートが空から降りてきているので外は見えないけれど、それがなければ、庭を見渡すことができたのだろう。洗濯物を干す母親や、車を洗う父親がいたのかもしれない。Aちゃんでさえ霞んでしまっているのに、その両親となると僕の記憶の中ではまさしく跡形もない。クレセント錠を開けば縁側があった。湿気を帯びた板の冷え冷えとした感触が靴下を挟んでも伝わってきた。身をかがめる。風に揺さぶられる養生シートのキャンパスに、芝生と庭木を思い描いた。五歳のAちゃんはきっとここに座っていたように思う。
 僕は鞄の中から団扇を取り出した。薄暗い光の中で色落ちした花火は白いインクの染みのようだった。Aちゃんに返せないならせめて家に返そうと思い立ち、目立った障害もなくたどり着いた目的地で、どこに置こうかと今更悩んだ。ここは確かにAちゃんの部屋だ。しかし僕はAちゃんの外観に見覚えがある程度であり、調度品の一切がないこの部屋に入っても、期待していたような思い出は蘇らなかった。
 部屋の中央で腰をついた。県道を走る車が水たまりを跳ねる音や、風になびく養生シートが壁に叩きつけられる音が時折聞こえるほかは全くの無音だった。隣家は通常の住宅なのに、人の気配さえしない。団扇を目の前に置き、腕を組んだ。自分の体温が脇の下を温める。傘を差して歩いていたのに、身体は案外雨に濡れて微かに震えていた。
 
   ○
 
 土手の葦原に立ち、川を眺めていた。
 記憶の奥底にあるその空も空気も、自然の夕方というには強すぎる赤みを帯びていた。その偏った色味は、幼い頃の僕の体感だったようでも、写真が色褪せるように記憶が時間に侵食されたもののようにも思えた。
 僕と一緒に来た子がいた。男子か女子かもわからなかったのだけど、今となっては、それがAちゃんだとわかる。川縁は立ち入り禁止だった。おどろおどろしい河童のイラストの立て看板は優しい言葉が覆い隠してしまう惨さを存分に伝えていた。だからこそ、誰にも見つからずに家に帰ったあとも、Aちゃんと一緒に来たその場所のことを誰にも言わなかった。
 Aちゃんは川縁に身をかがめ、葦原の草を組み合わせて作り上げた舟を水面に浮かべた。流れ続ける川の水が薄い船の竜骨代わりの葉脈に触れる。舟は首を振るように震え出し、やがてAちゃんの指先から解放されて、水面を進み、倒れてただの木の葉になった。
「難しい」
 Aちゃんがつぶやいた。悔しそうな声音に嬉しさが垣間見えた。挑戦することが好きな子で、男子を何人も泣かせていた。理由はすっかり忘れたけれど、僕もその泣かされたうちの一人だったと思う。
 記憶の中の視線が低くなる。夕陽を受けてきらめいていた川が葦に埋もれた。草の根元にある湿った茶色の土が見えた。光が遮られた土の上で、名前もわからない白い虫たちが好き好きに細やかな脚を動かして歩き回っていた。
「大丈夫?」
 Aちゃんが声を上げてやってくる。葦同士が擦れ合って音が徐々に大きくなる。僕は空を見上げた。西日の暖かさを頬に感じた。体調が悪くなると僕は真っ先にお腹が痛くなる。今もそうだし、三歳のこのときも同じだった。空へと向けて伸びる葦の壁の外側にAちゃんの麦わら帽子が見えた。逆光の中からAちゃんの手が伸びてくる。僕の手がAちゃんの手をつかんだ。身体が軽くなった。脚は地面を踏み直したとき、汗みずくの僕の髪がまとまった涼やかな風を受けた。Aちゃんが手に持った団扇で僕を扇いでくれていた。
「ありがとう」
 僕の声はとても小さかった。声変わりもしていないし、身体も弱っていた。だけどそれ以上に、僕自身の意志で、声を小さく抑えていた。頬に感じる熱の暖かさは夏の夕陽のせいばかりではなかった。
「あげるよ」
 扇ぐのをやめたAちゃんが強引に僕の手に団扇の柄を握らせた。鮮やかな赤と緑の閃光を描く、花火大会の記念の団扇だ。
「いいの?」
「うん、今年また行けばもらえるから」
 Aちゃんはそういうと、堤の上にある、屋根のある四阿を指し示した。あそこで休む? 声のない問いかけに僕が頷くと、Aちゃんは団扇を持っていない僕の左手を引いて歩き出した。
「また来ようね」
 どのタイミングで言われたのかわからないけれど、Aちゃんの声は僕の脳裏に蘇った。僕の返事は聞こえない。夕陽は川面の向こうにゆっくりと沈んでいった。
 
   ○
 
 目が覚めると、部屋の中がより暗くなっていた。夜にはまだ早いけれど、雲越しの日光は弱々しい。暗さが冴え渡っている。雨は土砂降りであり、風も轟々と音を立てていた。
 起き上がると背中に痛みが走った。体勢がまずかったらしい。腰をかばいながら起き上がり、手をあげて強張った背筋を慎重に伸ばした。口からは三歳の頃の自分とかけ離れた低い呻き声が欠伸とともに漏れ出てきた。
 夢を見ていた。それが本当にあったのかどうかもわからない。僕があまりにAちゃんのことを思い出せなくて、申し訳なさから勝手に作り上げてしまったのかもしれない。しかし、勝手というにはあまりにも僕の意志から離れていた。川縁の葦原も足元に広がっていた虫たちの世界も、僕の視界と程近いところにあり、夢と言い切るには厚みがありすぎるような、夏の湿気を肌で感じた。
 養生シートが壁を打ち、大きな音が耽っていた耳に飛び込んできた。なぜか同時に不法侵入という言葉が頭に浮かんだ。団扇を持って外に出よう。そう思って足元を見て、息が詰まった。自分の脚とフローリングの他に一切の何も残っていない。見回しても何も見つからなかった。
 養生シートが再び壁を打つ音がして、身体を取り巻いていた痺れが一瞬緩んだ。その隙に、急き立てられるようにリビングの跡地から廊下を渡り、外に出た。血液の循環する音ばかりが耳の奥を埋め尽くしていた。ずぶ濡れのサドルも構わずに自転車に乗り、ライトを灯して来た道を帰っていった。振り返ったのは、県道にたどり着いた頃だ。Aちゃんの家はすでに入り組んだ道の奥にあり、それを取り囲む骨組みも青いシートも見えなかった。
 
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 長い梅雨が明ける頃、久しぶりにAちゃんの家のそばを通る機会があった。解体工事はほとんど終わったらしく、骨組みもシートもない空き地に重機がぽつんと残っていた。雨を吸ってぬかるんだ地面をいくら眺めても、あの日失くした団扇を見つけることはできなかった。僕は自転車のペダルを踏み直した。思い出せるAちゃんの姿は相変わらず曖昧だ。この霞のような姿が晴れることはきっともう二度とないのだろう。

 とはいえ、切ないばかりも嫌なものだ。
 Aちゃんの団扇は今年の夏至に返せたと勝手に憶えておくとしよう。

(了)

※この小説は綿津見さんのweb夏企画に参加するための書き下ろしです。
 お題:「夏至」「扇」「切ない」

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