3月20日に死んだあの爬虫類の話をしない
1.
僕はそれなりに本を読んできた。
雑食気味に摂取していたのだけれど、コンセプトからして手が伸びなかった本もいくつかある。
その中でもとりわけ忌避してきた本があった。
その本は、一時期店頭によく並んでいた。Twitterでもよく広告が流れてきて、逐一ブロックするほどではないにしろ、見かけるたびに言い様のない嫌な感じに苛まれた。
その本のタイトルを出すつもりはない。読んでいないので詳細は違うのかもしれない。
その本は小説だ。余命を宣告された作者が、物語の主人公を介して、限られた命と知りながら生きることへの想いを描く物語だと聞いている。
その諦念や切望はあらすじからでも十二分に伝わるし、それを物語として伝えたかった作者の想いもわかる。
誰かに何かを伝えようとすることが物語のあり様だと僕は思っている。だから、作者の強い想いからこの物語が生まれたこと、それ自体を否定できなかった。
しかし、書籍として並んでいるその小説を見ると、どうにも嫌悪感が高まった。表立って「あの本は嫌い」と書くことはできなかった。
あの物語は認めつつ、その書籍には嫌悪を抱く。その内心を説明するのに、この言葉では足りないし、中途半端な物言いで余計な反感を買っても困る。
僕は何も言わずに、その本が店頭の最前列に並ぶ日が終わるのを、密かに待っていた。
僕が抱いた嫌悪感は誰にも言うつもりはなかった。
できることなら、説明できない気持ちの一つとして、表に出さず、そっと仕舞い込んでおきたかった。
2.
物語の中の「死」は、大きな存在感を持っている。
生きている人間が、死を完全に理解することはできない。
単純に、生きている限り「死」を経験することはできないので、その興味が尽きることはない。
物語の中では何人もの人が死ぬ。
惜しいキャラクターが亡くなれば、のめり込んでいたほどに悲しみが募る。
それはただ単に物語からの「退場」というだけではない。
物語のうちわずかしか出てこなかったキャラクターが、その最後の登場シーンをもって「死んだ」とは、滅多に言われないだろう。
作中で明確に死んだキャラクターに、読み手は現実の「死」を重ね合わせる。
描かれていない作品の奥、物語の枠を外れた作中の世界で、その人物が喪失し、もう人としては有り得ないことを感じ取る。
実感と重ね合わせているからこそ、あらゆる媒体の物語で、死は丁重に扱われるべきだとされている。現実の中でも大きな存在だからこそ、たとえ物語の中でも、雑に扱われたら不評を買う。
露骨に言ってしまえば、「死」は人々の関心を呼ぶ。
まったく知らない物語でも、誰かが死んでしまうと知ると、その経緯を知り、その死に様を理解したくなる。
関心を抱き、知ろうとすることは、物語に対する「需要」だ。
販売する企業側がこれに目をつけることは、経済的な戦略として全く正しい。需要のあるものに供給を与えることが企業の仕事だ。
絶えない経済活動によって雇用者の生活は保証され、お金が回ることで社会が活況になる。
書籍という媒体に限ってみても例外ではないし、むしろ昨今の状況を見るに、この需要を見極める感覚をもっとも鋭敏にさせているのが、書籍の販売手だろう。波に乗れなければ没落するよりほかないのだから。
経済的に間違ったことは一つもない。
それなのに、どうして僕は3月20日のあの日、あれほど嫌な気持ちになったのだろう。
説明できない気持ちをすぐにはTwitterに放れなかった。
興醒めの意見は他の人たちが代弁してくれていたし、作者の動機や反応は翌日にはリツイートで回ってきて、把握することができた。
嫌悪感の吐露は、どうしたって誰かを傷つける。
わざわざ人を傷つける必要はない。だから、黙っているべきかもしれなかった。
それでもこの嫌悪感が一年ほど前のあの嫌いな本に抱いた気持ちと同じであることに気づくと、この気持ちを今度こそ形にしたいと思ってしまった。
3.
「死」は非常に個人的なものだ。
僕の家族や友人、知っている人に「死」が差し迫り、そしてその感じていることを語ろうとしていれば、聞いてあげたい。
その気持ちを知りたいと思う。大した返事はできないにしろ、それでその人の一時の救いになってあげたくなる。
この聞きたいという気持ちのことを「需要」と呼んで良いのだろうか。
「死」に対する人の切実な関心を「需要」の二文字に変換して良いものなのだろうか。
「需要」に対して「供給」を与える。
足らないところを埋めようとする反応は、効率を追い求める経済的な価値観によって成立している。
経済的価値観は、無駄を排除する価値観だ。
家事にかかる手間が無駄だったから家電が生まれ、仕事を楽にするためにオフィス機器が進歩した。
外に出る手間を省くためにインターネットが発達し、指先一つで金銭の授受や、商品の受け取りが可能になった。
余計なことをしないですむ世界。誰もがそれを望み、可能と信じ、無駄を取り除いていった。
生活する上での無駄が粗方取り除かれると、今度は生活の質が求められた。
家具の品位を整えること。自然に優しい素材を使うこと。適度に身体を鍛えること。
どれもこれも、よりよい生活を求めるための活動だ。
求めることであるがゆえに、それは「需要」だ。
その「需要」に企業が気づき、質の良い暮らしを目標としたいくつものアイテムを供給するようになった。
このまま質のいい暮らしが満遍なく広まれば、誰も文句は言わないだろう。
しかし現実として、その暮らしへの欲望は未だ満たされていない。
平成の間ずっと僕らを取り巻いていた経済的不況は終わっていないし、正気とは思えない政治を含め、先行きの見えない不安が絶えず僕らを取り巻いている。
質の良い暮らし以前に、今この場で生きていることそのものが危うい。
生きることそのものが苦しいという感覚は、僕が見る限りでさえ、多くの人に共有されていると感じられる。
4.
「死」に対する関心は、僕らの不安を投影している。
誰かの「死」を聞いて、悲しいと思う。ごく普通の感覚だ。屍への埋葬を行った原始人の頃から、喪失を悲しむ感覚を人々は持ち合わせている。
なぜ悲しいのかというと、自分が生きているからだ。
自分が生きているからこそ、同じように生きられなかったものに対して悲しみを抱く。
今ここで生きている自分だからこそ、その「死」が自分に降りかかることを怖う。
僕らは生きることを肯定したい。
生きていること自体が素晴らしいのだと思いたい。
耐えがたいほど苦しい生活を送りながら、それでもなお今の自分の「生」に価値があるのだと信じ、それに追い縋って、真っ当な自分の「日常」を平穏無事に送りたい。
この切実な需要に、体験不可能な「非日常」の最たるものである「死」を供給する。
そのようにして「日常」の苦しみを緩和させることで、いったい何がどう改善されるというのだろう。
経済的アプローチで、「日常」の苦しみは消えはしない。
無駄を省くという経済的価値観の目的にさえ適っていない。
唐突な「死」を描くことでその暴力性を描き、「生」の大切さを伝えたかった?
無償でやってるならまだしも、経済活動が表に出てくるなら、それは疲れた現代人の「なんでもない『生』を貴重なものだと思い込みたい」という需要に応えようとする経済的な商売戦略以外の何ものでもないだろう。
5.
人々の需要を満たすという戦略そのものは、経済的価値観からの回答として、決して間違いではない。
しかし、「生」は大切だと喧伝することで、苦しみから目を背ける方法は、個人的に受け入れ難い。
需要を満たす方法は、何も経済的なアプローチに限られているわけではない。
ましてあらゆる物語が需要に対する供給という形でしか存在し得ないなんて、僕はそんな風には思いたくないのだ。
以上の理由で、僕は3月20日に死んだあの爬虫類の話をしたくもないのだけれど、
100日間に渡り僕を含めて人々の関心を引き続けた作者様に対しては素直に労いたいですし、
その執筆動機となったご友人様につきましては、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
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