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【小説】読書中はお静かに 第一話 本を捨てる(part 2)

2-1

 二月一九日。朝の空気は冷え冷えとしていた。

 二月も後半に差し掛かっているのに、冬は全く去る気配がない。意味がないとわかっていながら、真銅は手袋越しに白い息を吐く。

 真銅は昨夜、あまりよく眠れなかった。頭に浮かんでいた考えが熱を持ち続けていた。考え続けていることは得意ではない。真銅は今日のうちに決着をつけたかった。

 弧を描く坂道を降りて、地域の公民館を右手に歩く。バス通学ではないが、バス停の看板が毎朝の目印だ。相手はすでにベンチに座っていて、カバーをかけた文庫本を読んでいた。

「おはよう、スバちゃん」

 声かけに、阿倉昴は微笑んだ。

「イブちゃん、寝不足だね」

「わかるの?」

「目が充血してるから」

 立ち上がると、短めのボブが揺れる。中学生の頃、その髪はいつも長く保たれていた。ばっさりとカットしたその変化に、真銅は最近になってようやく慣れてきたところだった。

「眠れないとついついスマホいじっちゃうんだよね。それなのに何見てたのかあんまり覚えてない。目が疲れるだけ」

 伊吹は軽く頭を抱えるポーズをとった。

「伊吹ちゃん、うっかり学校でスマホを使わないようにしないとね。この前、四組の 人が休み時間に取り上げられたらしいよ。廊下で家族にメッセ送ってただけで」

「授業中でなくても取られるの? 厳しいな。それならいっそのこと学校に持ち込むの禁止にすればいいのに」

「そういうわけにもいかないんだよね。大事な話がクラスのグループで流れたりするし。使わせたいのかどうだか、わかんないよね」

 いくつか補足をする。

 この二人の会話に登場する「メッセ」や「グループ」は、彼女たちを含めた同年代の人たちが使用しているスマートフォン上のアプリの機能のことだ。
「メッセ」は「メッセージ」の略であり、主としてテキストを送る機能である。「グループ」は特定の人との間でメッセージを共有する機能であり、オープンなチャットスペースやメモ帳として機能している。
 アプリを使用するためには各人のアカウントが必要になり、それぞれのアカウントのIDさえわかっていれば、「メッセ」を送り合うことも、「グループ」に招待することもできる。
 読者諸兄がスマートフォンを持っているのであれば、誰しも似たような機能を持つアプリを使用していることだろうから、同様のものを想定していただければいい。
 その他の機能もあるにはあるが、とりあえず以上のことを理解していれば、この物語を理解する上で差し支えはない。

「伊吹ちゃん、もう触ってる」

 阿倉の指摘に、真銅はハッとする。指先が加工されたその手袋は、外さずともスマホを操作することができる。無意識のうちに開かれたスマートフォンには曇りのマークが浮いている。単なる天候の確認だ。使用禁止と掲げている学校内ならば、これでもお咎め対象となる。

「なんか怖くなってきた」

 真銅は大袈裟に頷いて、スマートフォンを鞄にしまった。

 徒歩にして二〇分程度の通学区間。本当に時間がないときなら自転車を使う が、余裕がある時は今日のように、阿倉と落ち合って二人で歩く。同じ小学校に通っていたときからの慣習が途切れることなく続いていた。

 川沿いの路が折れて、駅へと続く大通りを渡る。他の生徒たちを見掛けるようになったら学校は近い。真銅は昨日出会った男子、鶫巣彼方について話題にした。

「文芸部の鶫巣彼方って、知ってる? スバちゃんと同じクラスだよね」

「うん、なかなか独特な人だよね。その感じだとまた文芸部室に侵入していたみたいだし」

「侵入?」

「彼は文芸部員じゃないよ。どこの部員でもない」

 含みのある言い方だった。侵入という言い方にもどこか棘がある。

「部員じゃなくても部室って入れるんだっけ」

「職員室で鍵を借りる必要があるけど、まあ先生も、生徒が借りたいって言えば疑わないからね。文芸 部の人から聞いたけど、とくに盗みとか起きているわけじゃないし、放置してるみたい。むしろ普通の文芸部員よりもあの部室に詳しいらしいよ」

 話し終える間際に、阿倉へあいさつが飛んでくる。阿倉と同じバスケ部の部員たちだった。阿倉と比べたらどの子もがっしりとしている。というより、線の細い阿倉の方がバスケ部として少し異質だ。とはいえ、声を張り上げてあいさつを返す阿倉の姿は元気そのものだった。

 真銅は阿倉の横で鶇巣彼方のことを思い出していた。背丈はあまり大きくない。骨張った手や青白い肌は不健康そう。喋り出すと案外饒舌。そして手前勝手に推測を述べ始める。あけすけな物言いに、昨日は勢い余って飛び出してしまった。

「もしかして、あんまり関わり合いにならない方がよかったかな」

 真銅がつぶやくと、阿倉は振り向き、思うところのありそうな含み笑いをした。

「悪い人ってわけじゃないけ扉んまり他人と親しくしない感じかな」

 この前もね、と阿倉は続けた。

「うちのクラスの担任の先生の誕生日が一月にあったんだ。冬休み中にみんなでプレゼント買っておこうってグループで打ち合わせてたのに、当日に鶇巣君だけ何も持ってこなかったの。グループにはきちんと参加しているはずなのに。それで、今これしかないからって、持ってきてい た本をそのまま先生に渡しちゃったんだよね」

「うわあ」

 そのときの一組がいかに冷え込んだ空気だったか、昨日鶇巣と会ったばかりの真銅にも容易に想像することができた。やっぱりこれ以上関わり合いになるのはやめようと、密やかに決意する。

「それにしても、イブちゃんが文芸部に寄ったことの方が意外だよ。この前本屋さんに行ったときはアレルギーが出るなんて言ってたのに」

「まあ、自分からは寄り付かないかなあ」

 真銅は苦笑した。阿倉のような読書家のそばにいるので、この世界に本を好む人がいることは知識としては知っている。それでも自分が同じようになれるとは思えなかった。教科書以外で本を読むことはほとんどないし、やりたいとも思えない。

「廃品回収のときに捨てられている本を見てたら、なんか興味がわいてきちゃって、私でも読めそうな本ないかなって思ったんだ。鶫巣からは、そういうのは図書室でやれなんて言われたっけな」

 本当と嘘を織り交ぜながらの説明だった。

「なんで私に聞かなかったの?」

 阿倉の質問に、真銅は虚を突かれた。うまい説明が思い浮かばなかった。目を泳がせているうちに、目線の先に人を捉える。

「あ、あそこ」

 噂をすれば影。寝癖をいくつかなびかせながら、鶇巣彼方が歩いていた。眠気が残っているらしく、少し左右にふらついている。制服を着ていなければ一層怪しかっただろう。

 その彼方の肩を叩く人がいる。上背があるがたいの良い体に、短く刈り込んだ髪。

 桑水流くん、と阿倉がつぶやくのが聞こえた。真銅と同じ一年五組の男子生徒。男子バスケ部期待の一年生。

「あいつ、なんで鶇巣と? 鶇巣の奴、何かやらかしたのか?」

「ううん。なんかね、小学生の頃は近所で暮らしていたらしいよ。桑水流くんの方が中学生になるときこの街に引っ越したんだけど、鶇巣君が晴高に入学し て、いっしょになったんだって」

 晴高とは、真銅たちの通っている晴美高校の略称だ。

「へえ~、気が合うようには見えないけど」

「確かにね。でも、お互い違うからこそしっくりくるってこともあるよ」

 阿倉は目を細めていた。前方では、談笑している桑水流に鶇巣が横顔を顰めている。好ましい様子でないのはいつものことなのだろう。耳をそばだてても音までは拾えない。

「何を話してるんだろね」

 真銅の独り言は、阿倉の耳にも届いたらしい。

「それは謎だね」

 阿倉の視線はすっかり桑水流に注がれていた。

 五組の桑水流周と、一組の阿倉昴。二人が唯一接する機会は部活動の間にしかない。女子バスケと男子バスケの活動場所は間仕切りの緑のネットで区切られているが、声は通るし姿も見える。仲良くなり始めたようだと、真銅が認識した頃には、すでに阿倉の気持ちは固まっていた。阿倉の変化に気づけなかったことは、真銅にとって少なからずショックだった。

 とはいえ真銅も、最初のうちは二人の関係を応援していた。今でも、面と向かって阿倉に本心を言うことはできない。

 阿倉は桑水流から離れたほうがいい。 そのような思いを抱くようになった原因は、他ならぬ桑水流にある。

 年の瀬へと向かいつつあった一二月半ばの土曜日。この日、男子バスケ部ではホームの練習試合があり、終了後にひとつの騒乱があった。控室で相手校の選手との喧嘩が起きたのだ。顧問の把握が遅れているうちに、騒ぎは大きくなっていった。相手校の選手の言い分は、晴高バスケ部員からの一方的な暴力行為。指をさされたのは桑水流だった。桑水流からの釈明はなし。彼には二か月の部活停止処分が下された。

 事件の話を聞いた直後、真銅は気が気でなかった。人を殴るような人間と阿倉とが一緒の空間にいるというだけでも怖気が走り、女子バスケ部の練習も控えた方がいいのではないかとさえ思っていた。しかし当の阿倉は桑水流への想いを抱いたままだった。それどころか事件の後、ますます桑水流への思慕を募らせている様子だった。真銅はそのことを歯がゆく思いながらも、邪魔立てはしなかった。

 復帰する桑水流のために、バレンタインデーの準備をしたい。阿倉からの申し出に素直に従ったのも、真銅なりの筋の通し方だった。 プレゼントを買いたいと言われて、普段なら避けてしまう書店に足を踏み入れた。

 阿倉が桑水流のことを想うのならば、自分はそれを全力で応援する。処分期間が終わる頃には、真銅も気持ちが固まっていた。

 阿倉がプレゼントを渡した日、阿倉からは喜びのメッセが送られてきた。その翌日が廃品回収の日だった。トラックで見かけた『無罪の烙印』のことを、真銅はまだ阿倉に伝えていない。わざわざ伝えて傷つけるのは、真銅の意識にはなかった。

 もしものときは、私がスバちゃんを守らなければならない。

 日に日に膨れ上がる感情は、桑水流を睨みつける視線にのみ現れていた。


2-2

 校庭の側溝の蓋を歩く黒猫を、鶇巣は三階から見下ろしていた。猫の尻尾は自由に弧を描きな がら、ゆっくりと遠のいて、やがて林の奥に見えなくなった。黒猫に横切られたら不幸が訪れるというが、これだけ距離があるとどうなのだろう。どうでもいいことを考えているうちに、チャイムが鳴った。担任の先生が扉を開けて、ホームルームの開始を告げる。

 来月初めの期末試験のことに軽く触れて、解散の合図、号令、別れの言葉。全体で五分もかかっていない。きびきびとした先生は淡白に見えるが、生徒からの評判は良かった。先生が出ていき、教室の空気が弛緩する。 部活がある生徒は早々に廊下に出て、帰る生徒は鞄を背負う。彼方もまた鞄を手に持ち、ふとその中の文庫本を意識した。昨夜のうちに読み進めたが終えられず、残りは100ページあまり。邪魔が入らなければ、日が暮れる前に読み切れるだろう。逸る気持ちに、先程の黒猫の面影が水を差 す。絵に描いたような嫌な予感は、廊下から飛び込んできた声によって確信に変 わった。

「捨ててねえって言ってるだろ!」

 学校で怒鳴る人間は珍しかった。彼方の記憶では、最後に見たのは中学生の頃だ。タバコの吸い殻を見つけた生徒指導の先生が朝会で叫んでいた。あのときもうるさいと思ったものだが、今聞こえてくる声もなかなかの大きさだ。 周囲の空気が張り詰めていく。彼方にとっては嫌なことに、その声には聞き覚えがあった。廊下にはすでに人集りができている。一組の廊下から離れること四教室分、五組の入り口は特に混雑していた。ひょこりと頭が飛び出しているのは、どこからどう見ても友人の桑水流だった。今朝は馴れ馴れしくさえあった表情が今は上気して強張っている。

「嘘ばっかり! 廃棄されるところを見たんだからね」

 昨日出会ったばかりの少女、真銅が 桑水流の前に立ちはだかっていた。興奮している様子で、桑水流よりさらに大声だった。背丈では頭二つ分ほどの差があるのに、血色ばんで仁王立ちする貫禄はその差を埋めて余りある。先にこの光景を見ていたら、昨日話すこともなかっただろうと彼方は思った。

「そんなわけあるか。あれはまだ俺の部屋にあるし」

 周りの目を気にしているのもあるだろう。桑水流の勢いは削がれつつある。上背はあっても意外に小心者なのだ。それに加えて、年末から二か月の謹慎処分を食らっている。騒動の気配に過敏になっていることは明らかだった。

「それなら今から部屋から取ってきて、あたしに見せてよ」

「いや、それは無理だ」

「ほら、やっぱり捨てたんじゃない」

「違う違う! そういう意味じゃなくて、あっ」

 突然、桑水流が会話を打ち切った。彼方の近く、つまり一組の教室側に、青褪めた顔の阿倉昴が立ちすくんでいた。小さく開いた口はわなわなと震えている。周囲の人は余計な気を使ってしずしずと遠のき、目に見えない舞台の上で、阿倉は主役になっていた。

「ひっ!」

 裂けるような悲鳴をあげて、阿倉が廊下を走り出す。『廊下を走るな』 と訴える貼り紙を誰も気にしない。形の良いフォームを保ったまま、直角に折れて階段に突っ込んで、だだだだっとリズミカルな逃走音を響かせていった。

「あ、阿倉」

 桑水流が声をあげて追いかけていき、野次馬たちが色めき立つ。阿倉と桑水流の間に何事かあることは、普段他人に興味のない彼方にさえ察することができた。野次馬たちはさらにどよめく。桑水流の右袖を真銅が両手でつかんでいた。

「離せ、真銅」

「うるさい! スバちゃんに近寄るな!」

 取っ組み合いと叫び合いに、廊下は一際盛り上がりを見せていた。

 どこからどうみても面倒な出来事だ。逃げようとまず思う彼方を、別の気持ちがためらわせる。野次馬の無粋な歓声が、彼方の神経を逆撫でする。苛立ちとは少し違う。正義感ではなおさらない。それはたったひとつの確信だ。自分は他の誰よりも、この騒ぎの意味を上手く把握し、解くことができるだろう。

 桑水流が腕をふり、真銅を振り払う。駆け出した桑水流を真銅は睨みつけ、自らのセカンドバッグの持ち手を握った。 視線はいまだ桑水流の後頭部に刺さったまま、セカンドバッグはその手を支点に旋回し、振り上げられる。

「桑水流!」

 慣れてないことはするものではない。数秒後の彼方は一瞬の間にそう思う。

 体勢が整っていれば、身体が考え通りに動くことができれば、受け止めることもできただろう。仮定は現実の痛みの前に散っていく。

 猫など見つめなければよかった。

 不満を口にする暇もなく、頭部に受けた衝撃は彼方の意識を遠のかせた。


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