【小説】読書中はお静かに 第一話 本を捨てる(part 6)
6-1
一人の生徒が部室棟に入り、階段を上って二階の、廊下のベンチに腰掛けている真銅と目が合った。真銅が見返すと怯えたように目を逸らし、自分の部室へと入っていった。誰もいなくなった空間に、真銅はため息を落とした。
人の出入りはあまり多くない。ミーティングのためだったり、物置にしていたり、部室棟の使い方は部活によってそれぞれだ。職員室で鍵を借りて、扉を閉じてしまえば、何が起きているのか外からはわからない。
文芸部室に入らないよう、真銅は我慢している。それが彼方との約束事だった。そうすることが阿倉のためだという、彼方の物言いを信じた。
壁掛けの時計が六時を告げた。外はすっかり暗くなっている。眠気を感じ、真銅は首を軽く横に振る。待ち望んでいた音が聞こえたのはそのときだった。
「スバちゃん!」
文芸部室の扉を阿倉が開いていた。真銅が駆け寄る間に、阿倉は扉を閉める。彼方が出てこないことも気になったが、阿倉と話す方を優先した。
「大丈夫? 鶇巣に嫌なこと言われなかった? あいつ口悪いから私心配で」
戯けた調子は次第に萎む。阿倉は目深に俯いていた。
「スバちゃん、どうしたの? 顔色悪いよ」
「それはイブちゃんもだよ」
阿倉がようやく声を発してくれた。安心したほんの一瞬の後に、阿倉が声をかけてきた。
「お話したいんだ。外に出ていい?」
阿倉は顔をあげて真銅を見つめた。顔色は悪いが、目だけは力強く光っていた。
「いいけど、外寒いよ?」
「ここも大して変わらないよ。それに誰も来そうにないところで話がしたい。いいよね」
最後の言葉は、文芸部室の扉に向けられていた。扉の奥から彼方のくぐもった肯定が聞こえた。不思議そうな顔つきの真銅を阿倉が先導する。真銅は少し遅れてついていく。阿倉はゆっくりとだが、止まらずに歩き続けていた。
○
「僕は探偵のように、君らを助けたいわけじゃない」
阿倉が文芸部室から出てくる数分前、彼方は阿倉に向けて、はっきりとした口調で宣言していた。
「探偵は依頼を受けて事件を解決する。僕のところにも真銅という珍妙客があり、君らに降りかかった謎を解いた。構図は似ているが、でもそれは君らのためじゃない。僕自身のためだ」
彼方は自分の胸に手を当てて訴えていた。少し強めの口調だが、意味するところは阿倉にはわからなかった。
「僕は一人が好きだ。周りに人が寄り付かない一人の時間を過ごしたい。そうすることのできる時間と空間を大事にして生きていきたい。晴高の中で、ここは僕が見つけた至高の場所なんだ。ほこりの被った本ばかりが並んでいるのもいい。ここから眺める外の景色も好きだ。誰にも邪魔されずに時間が過ぎていき、とっぷり暮れると思うと気持ちが晴れる。そのようにして迎えた夜はよく眠ることができる。僕の気持ちは安定し、明日からくる騒音だらけの毎日を比較的まともに生きることができる。ここは僕の聖域だ。ここを邪魔する奴は、たとえどんな用事であろうとぼくは許すことができない」
「邪魔って、そんな言い方」
「まだ話の途中だ」
阿倉の声を彼方は鋭く制した。
「昨日、真銅は僕の邪魔をした。その原因が君だということはもうすでにわかっている。そして僕は、君の味方なんかじゃない。真偽を見極めるために話を聞きたかった。それだけなんだよ」
そう言って、彼方が扉ノブに手をかける。スムーズな動作に一歩遅れて、阿倉の全身に鳥肌がたった。
「君を助ける義理はない。廊下で待ってるうるさい奴すべて打ち明けて終わりだ」
「やめて!」
阿倉は立ち上がった。パイプ椅子が弾かれて、音を立てて本棚にもたれる。
「僕にされるのが嫌だったら、君が言えばいい」
彼方の言葉に、阿倉は虚を突かれた。まだ扉ノブは回っていない。
「言い方は君に任せる。どうせ僕には不躾な言い方しかできないし、配慮するつもりもない。あいつが傷つこうと君らの関係がどうなろうと知ったことではない。そんな僕に任せるのは不安なんだろう? だったら君がやればいい。君にとっても悪くない提案だ と思うが?」
「……言いたくない」
阿倉は言葉と表情で、ありありと感情を伝えてい た。
「違うね」
彼方は阿倉に向き直って断定する。
「君は言い方が思いつかないだけだ。失敗することをリスクだと考えている。うまく伝えられなければ友人を失うことになる。そのリスクに君は怯えて、自分の本心をすり減らしている。不思議だ。君はどうして真銅のことを信用しない。真銅が君を傷つけるわけがないだろう」
彼方の言葉が阿倉の頭で反響する。
「どうしてそう言い切れるの」
阿倉は彼方に問いかけた。彼方は真銅とほぼ初対面だった。無縁の相手なのに、彼方が真銅の何を知ってい ると言うのか。純粋な疑問だった。
「真銅がした質問は、振り返ればすべて君のための質問だった」
そして、彼方は言った。
「いい か。君の姿がないところでも、君を傷つけまいと奮闘する。そんな人間が、君の気持ちを全否定するなんて、それこそ考えられないんだよ。だから、話し合いの余地は十分にある。君が怯えさえしなければな」
簡単な推理だよ、と彼方は最後に付け加えた。
○
彼方の言葉はいまだに阿倉の頭の中で響いていた。
部室棟の裏、敷地外周のフェンスのそばで、阿倉は真銅と向かい合っている。 いつでも自分を守ってくれていた、力強い友人。その背中に隠れることが、阿倉の生き方だった。その安心感はたとえ気持ちが離れてからも忘れられない。真正面に立ってみると、よりよく分かる。自分はその安心が失われることを恐れていたのだと。
「あのね、イブちゃん」
真銅は何も言わず待ってくれている。話す前から労ってくれている。そんな彼女をどうして怖いと思っていたのか、阿倉はわからなくなった。身体が軽くなる。少しだけ息を吸う。二月の夜の空気は、多少なり阿倉の体を温めた。
「謎は全部解けたんだ。私が勘違いしていたんだよ」
そうして阿倉は、本当のことを話し始めた。
6-2
遠ざかっていく足音を確認して、彼方は扉から耳を離した。すでに彼の気は済んでいた。追いかける義理もない。これ以上急かさなくとも、阿倉の好きな ようにやればいい。
「さてと」
窓を背にするパイプ椅子に腰掛けて、鞄の中から読みかけだった本を取りだす。無闇に真銅を悩ませた蔵書印が二手に分かれる。残り少ないページ数を指で確かめ、読み進める。そのうち周りの音が遠くなり、寒さも気にならなくなった。物語は彼から感触を奪っていく。
静かな時間を堪能する。それが彼方の目的だ。
外の世界では、一人の少女が友人に真実を打ち明けている。彼方の推理と自分の想いを打ち明けて、友達からの返答を待つ。その心臓の高鳴りを、彼方は知る由もない。
その静寂が、まさかまた破られるなんて、彼方は思ってもみなかった。
読み進めて半刻ほど。そろそろ部室棟にも見回りの先生がやってくる頃合いだ。出ていく生徒はいても、入ってくる生徒は珍しい。その人は、文芸部室のド扉をノックもせずに開いた。
「……ああ」
相手がわかると、彼方は目を落とした。予想外だが、驚くほどの相手でもない。
「もっと言うことないのかよ。お客さんだぞ」
「僕からはない。お前こそむしろ謝ってほしいものだ。僕を妙なことに巻き込みやがって」
入ってきたのは桑水流だった。部活が終わったらし く、すでに制服に着替えている。体育館では汗だくだった身体もすっかり冷えたようだった。
「そうだな。悪かったよ。お前がそれほど人助けに熱心に取り組むなんて思わなかった。変わったな、彼方」
桑水流が人懐こい声で言う。彼方は苦々しげに鼻を鳴らした。
「至近距離で迷子になっている子犬がいたら、元の道に返してやるさ。僕だって人間なんだから」
「なるほど、随分はしゃぐ子犬だったな」
桑水流が妙なところで感心する。
「まったく全部押しつけて、ああ、思い出したら腹が立ってきた。お前にも何か罰が必要だ。何がいい?」
「うーん、難しいな。思いつかん」
戯けた調子の桑水流が、わずかに目を伏せる。
「罰なら今まさに受けてる」
桑水流は静かに言い置いた。
「ここに来る途中で真銅と阿倉に出会ったよ。俺はかなり気まずかったけ扉いつら二人でそろってあいさつしてきた。元気そうで、よかったよかった。なあ、あんな顔をするってことは、俺(・)の(・)こと(・・)は話さなかったってことだよな」
「当たり前だ。それこそ無意味じゃないか」
文庫本にしおりを挟み、ぱたんと閉じる。結局ここでも読みきれなかったと、頭の隅で落胆した。
「蔵書整理の日、僕はお前にスマートフォンを貸した。ずっと使ってていい、実際にお前は冬休みが明けてからも僕のスマートフォンを使い続けていた。それはどうしてか。まさか参加できない部活の連絡事項を確認していたわけじゃないだろう。冬休みが終われば、学内の人間と会話することも容易だ。そうなると、お前がスマートフォンを欲しがったのは、学外の人間と連絡を取るためだ。僕はそれが誰なのか察することができる。その推測を、真銅や阿倉のような部外者に話す理由はない」
「そうか。優しいな」
桑水流が目を細める。
「言葉に気をつけろ。それは僕の一番嫌いな言葉だ」
彼方が口を尖らせて、桑水流の乾いた笑いが響く。折良く、チャイムが鳴った。部室棟の施錠まであとわずか。ざわめきと、どこかの部室の扉の開く音が続く。
「決めたよ、罰」
桑水流が腰を浮かせた。
「俺はもうお前からスマホを借りない。まあ、お前に借りていた間も、その前からも、返事は来なかったけどな。これで許してくれ」
彼方の反応を待たずに、桑水流が別れを告げて、部屋から出ていった。
「まったく、生きてる奴は騒がしい」
聞く者のいない愚痴をこぼして、彼方は文芸部室を手にした。
(読書中はお静かに 第一話 本を捨てる 了)
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次回の更新は3月6日(日)を予定しています。
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