【小説】読書中はお静かに 第一話 本を捨てる(part 4)
4-1
彼方の口にした心配は杞憂に終わり、二人ともそれぞれの部活で練習に勤しんでいた。
真銅と彼方が体育館に入ったとき、体育館には体育館に野太い歓声が響いていた。ステー ジ側、男子バスケ部の練習試合でシュートが決められたのだ。真銅は面食らい、彼方はそれ以上にびびっていた。
入り口側の女子バスケ部は小グループで練習を行っていた。試合ではないとはいえ顔つきは真剣で、口を挟める雰囲気ではない。阿倉もその練習の輪に入っていた。近くにいた部員に彼方が一応尋ねてみると、あと三分は待ってほしいとのことだった。彼方は肩を落として真銅を振り向いた。
「僕は男子の方に行ってる。桑水流にも聞きたいことがあるからな」
「大丈夫? 怖かったら一緒に行ってあげるからね?」
「ばかにするな! ボールさえ見なければ怖くはない」
ちゃんと見ていた方が避けられるのではないかとアドバイスしようとしたが、彼方はいきりたってすでに仕切りのネットを潜っていた。男女の部活を区切る緑のネットは天井から垂直に降りているが、声も視線も遮らない。男子からも、女子からも。
真銅は運動が嫌いではない。むしろ好きな方だ。運動が苦手な人はとことん避けたがることも知っている。だから高校生になって、阿倉が運動部に入りたいと言っているのを聞いたときには衝撃を受けたものだった。嫌なことがあったらいつでも軽音部に入っていい、などとさえ言ってしまった。阿倉はあいまいに笑っていた。幸い、女子バスケ部は雰囲気も良かったらしく、阿倉は一度も真銅を頼らずに部活動を続けている。
阿倉は自分から遠くなってしまった。そんな言い回しを思いつくことがある。真銅はそれを口にしなかった。阿倉だって自分のやりたいことがある。寂しさなど口にしたところで誰が幸せになるというのか。
三分が経過して、真銅の前に現れた阿倉は、笑いかけてこそくれたものの、明らかにぎこちなかった。
「真銅のあんな大声、久しぶりに聞いたよ」
阿倉の声は痛々しかった。阿倉が覗いていたのはわずかな時間だったはずだが、事態を察するのには十分だったのだろう。
「プレゼントが捨てられていたことなんて、わざわざイブちゃんが怒らなくてもいいのに」
顔をうつむかせる阿倉に、真銅は一瞬真顔になり、それから頭を下げた。
「それは、ごめん。どうやら違うみたいなんだ。私の勘違いだったんだよ」
阿倉が息をのむ気配を感じ、真銅は彼女に向き直った。
「でも、桑水流はまだ何か隠している。それを解決してくれそうな人が、阿倉と話がしたいんだって」
「誰?」
阿倉の声は思いの外鋭く、低かった。引っかかりを覚えながら、真銅は話を続けた。
「鶇巣彼方。ほら、朝話したよね。桑水流の友達の、今あそこにいる」
ネットの向こう側に向けて指を差し、そこにいる彼方が桑水流と一緒にいるのに気づいて、真銅は若干焦った。避けるべきだったかもしれないが、阿倉ももう目を向けてしまっている。
「そんなに心配しなくても大丈夫なのに」
阿倉はなおも低い声でつぶやいた。
「変わらないね。イブちゃんは。昔から」
「昔?」
「うん」
阿倉は真銅の脇を通り過ぎた。いきなりのことに、真銅の反応が遅れる。手を伸ばしても届かない距離で、阿倉は振り向いた。
言葉はひとつもなかった。それなのに、真銅は何故か、寒気を感じた。息が詰まる。阿倉がとても遠い場所にいるような気がした。
「君が阿倉さんだね」
呼び声に、阿倉が振り向いた。ネットをくぐりながら、彼方が一人で歩いてきた。真銅はふっと現実に引き戻された。
「どうも初めまして。一年一組の鶇巣彼方です」
「はじめまし、え、同じクラスだよ?」
「誰かと話したことなどないからな。はじめましても同然だろう」
「いやでも……ええ?」
当惑する阿倉から、さっきまでの張り詰めた雰囲気が消えていることに、真銅は安堵していた。さっきのはなんだったのだろう。
「よし、引き合わせることはできたね。早く桑水流の秘密を教えてよ」
「急かすな。ここは騒がしいだろう。それに、僕は彼と阿倉さんとに聞きたいことがあるってだけだ」
何が違うのか、真銅が口をとがらせる前に、彼方が阿倉の名を呼んだ。
「今日、桑水流と真銅が衝突したことは知っているね?」
「はい。放課後の、ですよね」
阿倉はいくらか声を低めて答える。
「衝突の原因は、君が桑水流に送ったプレゼントを捨てられたから。真銅、 それで間違いないね?」
「あたし?」
不意を突かれた真銅は、間を置いてから頷く。
「そうだけど、なんでまた確認なんか」
「そのプレゼントの正式名称を言ってくれ」
「……はあ?」
強引なその質問の意図が真銅にはわからなかった。問われている意味はもちろんわかる。でもどうしてそれを今聞いてくる?
「正式もなにも……本だよ。小説。たしか、『無罪の烙印』ってタイトル の」
「そうだよ。そういうことだ」
彼方は深く頷いた。真銅は一向に了解を得ない。対する彼方は、今度は真銅を見ていなかった。
「スバちゃん?」
阿倉は両手で口を覆い隠していた。目を見開いて、彼方を見つめている。どこをどう見ても、驚愕していた。
「ああ、そんな」
阿倉は青い顔をして、天井を仰いだ。よろめいたと思い、真銅がその背に手を伸ばす。腕に阿倉の熱を感じた。
「ちょっとスバちゃん! しっかりして」
「真銅」
顔色の悪い阿倉を気にしていない様子で、彼方が声を掛けてきた。苛立ちながら振り向くと、さらに人差し指を突きつけられた。
真銅は彼方のことを、少なくとも桑水流よりは、信じるところがあると思っていた。真相まで自分を連れて行ってくれる導き手。そのように感じていたからこそ、続く彼方の言葉をすぐには受け止められなかった。
「悪いがお前とはここでお別れだ。僕は阿倉さんにだけ質問をする。お前には、聞かせられない質問だ」
間が空いた。何分も空いたように真銅には感じられた。感情はやがて栓を抜いた水槽のように、溢れてきた。
「ちょっと、あんた何言ってんの! ここまで一緒に考えて、協力だってしてきたのに」
「ああ本当にな、それは感謝する。しかし僕にも僕の事情がある。言うことが聞けないなら、いいだろう。僕はもう何も言わない。君にはもとより何かを言うつもりはないし、阿倉さんにもわからないままでいてもらおう」
彼方の視線が阿倉に突き刺さる。阿倉は青褪めながらも立ち上がった。
「イブちゃん、いいよ。私は聞く。移動する? ここは騒がしいでしょ?」
心配する真銅を制しながら、阿倉は尋ねた。
「文芸部室だ。あそこなら邪魔が入らない」
「……わかった」
二人のやりとりを聞きながらも、真銅は苛立ちを抑えられなかった。
「スバちゃん、妙なことされたらすぐ逃げるんだよ。あたしが代わりにぶん殴るから」
「すぐ暴力に訴えようとするな……」
ぼやく彼方とともに体育館の外に出る。寒空に風が吹き抜けていく。短い渡り廊下には、夜の気配が膨らんでいた。
4-2
「お前のせいで災難続きだ」
頬を示しながら、彼方が訴える。呼び出されたばかりの桑水流は、まず彼方の湿布に驚き、すぐに事情を察したようだった。
「よく見えてなかったんだが、鈍器でも投げられたのか?」
「そんなものだったら僕の顔はとっくに粉々だ」
彼方が男子バスケ部員を通じて桑水流を呼んだとき、彼は更衣室で休憩をしていた。細長いタオルを首に巻いており、手持無沙汰なのか端を握りしめていた。
「すまなかったな」
桑水流の小さな謝罪に、彼方は手を軽く振る。
「そんなのはいい。状況を説明しよう。阿倉がお前にプレゼントをし、お前がそのプレゼントを捨てたと真銅は思い込んでいる。だがおそらくお前は捨てていない。残る謎は、お前はどうしてさっき廊下で、プレゼントを持ってくることができないと答えたか。この質問に今お前が答えてくれればすぐに終わる話だが?」
彼方の問いかけに、桑水流は目を落として頷いた。状況は察しているらしい。
「すまない。お前の言いたいことはわかっている。だが、俺はお前に本当のことを言うことができない」
桑水流の苦々しげな顔つきを、彼方は鼻で笑った。
「まるでエピメニデスのパラドックスだな」
「エピ……なに?」
怪訝な顔をする桑水流を見て、彼方は説明を加えた。
「新約聖書のある書簡に、クレタ人が『クレタ人はいつも嘘をつく』と述べる一節がある。もし本当に嘘つきなら、この一節も嘘ということになる。一節が正しいとすると内容が嘘になる。いずれにしても矛盾が生まれる。嘘つきは自分が嘘つきだと証言することができないんだ」
「それはまた、難儀な話だな。嘘つきが本当のことをいうためには、他人に暴かれるしかないわけだ」
桑水流はそっとつぶやいた。言い終えると、ステージの上に置かれたタイマーに桑水流は視線を向けた。残り時間は一分と短くなっていた。
「『本当のことを言うことができない』について聞かせてくれ」
彼方の声かけに、桑水流は無言だった。彼方は少し早口で桑水流に尋ねた。
「お前の言う『できない』は、不可能と禁止、どっちの意味だ」
何かをするために必要なものがそろっていない。あるいは何かをすることがもとより許されていない。彼方は二つの可能性に絞っていた。
残り時間が三〇分を切っている。桑水流は真顔のまま、唇を湿らせてから答 えた。
「禁止だ」
タイマーのブザーが響く。
「そうか」
礼を言って、彼方は網の向こうへ歩いていく。真銅と阿倉の二人が向かい合っているところへ声をかける。彼の中ではすでに、ひとつの確信が生まれていた。
4-3
静かな空間。邪魔されない時間。それらが彼方の何よりも求めているものだ。他人の近寄らない、一人きりの自分ならば、いくらでも考えることができたし、何も考えずに黙することもできた。逆にそのような一人の時間を得られていないと、一日経たないうちに落ち着かなくなってくる。晴高の文芸部室は彼方にとってなくてはならない聖域だった。
その聖域がすでに二回破られて、三回目を彼方自身が破ろうとしている。自分がこれほど酔狂な性格だったかと、部室の扉を開きながら疑問が一瞬過ぎる。
阿倉を招き入れる際に、廊下の奥にあるベンチに一瞥をくれた。真銅が座って彼方を睨んできている。聞き耳は立てないが、いざというときには駆けつけたい。真銅の意地と彼方の抵抗の結果だった。例えば阿倉が悲鳴でも浴びたら、今度は湿布では済まないだろう。
解決の材料はそろっている。つつがなく終わらせたいのが彼方の本望だ。部室の奥、西日の名残が夜に染まりつつある窓を背に、彼方は阿倉と向かい合った。阿倉は目を伏せている。真銅と話していたときにはかろうじて残っていた微笑みも消えていた。
「体育館で僕が真銅に質問した意味は、君にもわかっているんだろう?」
真銅と話すときよりはいくらか柔らかい声を心がけた。阿倉はわずかに顔をあげる。もちろん聞こえているし、聞く意思もあるのだろう。彼方は言葉を続けた。
「桑水流がプレゼントを捨てたと思い。真銅は怒っていた。自分には関係ないのにな。僕にはいまひとつ理解できないが、あいつは他人のために怒る人間だ。そういう奴のことを、普通は優しいと評するのだろうな」
少しだけ間をおいた。期待したが、阿倉からの反応はなかった。
「桑水流はプレゼントを捨てていない、かつ『見せられない』と言っている。真銅が引っかかっているのはこの点だ。『無罪の烙印』を捨てていないなら、素直にそれを見せればいいのに、桑水流は頑なに拒んでいる。それを疑って暴れまわる短慮はともかく、桑水流の言動も不可解だ。手元にあるのに見せられない。いったいどういうことなのか」
「私にそれを説明しろっていうの?」
体育館でも教室でも聞いたことのない、深く沈んだ声。阿倉の視線は彼方を突き刺していた。
「いいや、その必要はない。桑水流は教えてくれたよ。彼は真相を口にすることを『禁じられている』ってね」
彼方は物怖じせずに言い放った。阿倉の肩がぴくりと動く。怯えている。それが察せられても、彼方は止まらなかった。
「つまり、桑水流はそのプレゼントを真銅に教えることを禁じられている。禁じたのはもちろん阿倉、君だね。つまり、真銅の思い描いているプレゼントと、桑水流のそれは違うものなんだ。真銅はプレゼントを 『無罪の烙印』だと思ってる。何故か? 君が真銅に『プレゼントを買いに行こう』と誘ったからだ。だから真銅は誤解した。というより、君が誤解させたんだ。真銅が絶対に本当のプレゼントに気づかないように」
「やめて」
阿倉の声は大きく、かすかに震えていた。
「そんな言い方はやめてよ。誤解させたなんてそんな、人聞きが悪い」
「他に言いようがないだろう。安心しろ。ここには真銅はいない。あいつは血の気が多い奴だが、こそこそすることはできない人間だ。僕から彼女に伝えることもない。なんのために真銅を部屋から遠ざけたのか、君だって とっくに気づいているんだろう? それに、あれだけ世話焼きな、言ってしまえば過干渉な友人の目を盗んで、意中の人と連絡を取りたいと思うのは、ごく普通の心理だと僕は思うがね」
「鶇巣くん、見たの?」
阿倉が悲鳴のように言い放つ。腰が浮き、彼方に今にも飛びかかりそうになった。
「見なくてもそれくらいはわかるし、今の君の態度で確定したよ。こういうところだと、君と真銅は似た者同士なんだな」
彼方がかすかに口元を歪める。血色ばんだ阿倉の顔が、しだいに青くなって いく。
「……最悪」
がくんとふたたび阿倉は座り、力が抜けたように突っ伏していく。
「似たようなことはよく言われるよ。だからって良くなろうともしないがな」
彼方が追い討ちを掛ける。
「聞いてないし」
阿倉は首を軽く横に揺すり、それからくつくつと小さく笑 った。
「もうどうでもいいよ。どうせ桑水流くんは、私の気持ちに応えるつもりもないんだし」
それは投げやりといってもいい調子だった。
「真銅はともかく、鶫巣くんは不思議だったんじゃない? どうして私が桑水流くんに読了済みの『無罪の烙印』をプレゼントしたのか。あの本は、剣持先生の代表作だし、先生を追っている人なら大抵は読んでいるくらいの本なのに」
「まあな。しかし必ず読むとは言えない。君が桑水流の蔵書を知っている確証もなかった」
彼方が言うと、阿倉は表情を和らげて首を振った。
「知ってるよ。だって、その小説は桑水流くんと初めて感想を言い合った本だから。私にとっては思い入れがある本だった。もし桑水流くんが私のことを意識してくれているならば、わざわざ読んだことのある本をプレゼントしたことを不思議に思って、中身を確認したはずだよ。君の推理したとおり、私は『無罪の烙印』に、普段とは別のメッセのアカウント名を書いておいたんだ。『絶対に他の人には教えないで』って書き添えて」
吐き出すように言い終えると、阿倉は大きなため息をついた。人差し指を長机に突き立てて、ぐるぐると回し始めた。
「土曜日からずっと待ってるのに、桑水流くんは一回も連絡してくれない。なんでだろう。桑水流くんのアカウントがあることは男バスの人も言ってたのに。あーあ、バスケ部入って 結構自分を変えられたと思ったのになあ」
指先の動きが止まると、阿倉は首を回し始めた。阿倉の変貌っぷりを彼方は興味深く眺めて、声にならない呻きをいくらかやり過ごしてから口を挟んだ。
「君はバスケ部に入って自分の性格を変えようとしたのか。高校デビューのつもりで」
「つもりじゃない。私は本気だったんだ」
顔をしかめて阿倉が吠えた。
「私、小学生のときは運動がすごく苦手だったんだ。動きながら考えるってことが全然できなくて、頑張ってるのに全然報われなかった。マラソンのときとかね、咳き込みながらやっとのことでゴールしているときに、一緒のクラスの男子が私を指差して笑っていた。言 い返したりとか、そんなこと私にはできなかった。だって、遅いのも、フォームがおかしいのも、本当のことだったから。本当のことなら、それは全部自分の責任。だから私は黙ってからかわれてた」
小学生のからかいとはいえ、苦い顔つきからはそのつらさが滲み出ていた。思い出したくない記憶なのだろう。
「でもね。その男子をイブちゃんが倒してくれたんだ」
「倒す?」
「うん。こう、ボカッと。容赦なかったな」
「……あいつ、小学生のときから変わらなさすぎるだろ」
眉根を寄せる彼方に、阿倉は久しぶりに微笑んだ。
「それだけじゃないよ。出会ってからいつも、イブちゃんは何かにつけて私を守ってくれるようになった。相手が男子でも女子でも、先生だろうと関係なく。小さい頃は、イブちゃんはすごいなって純粋に思っていたよ。こんなに頼り甲斐のある人と出会えて、私はなんて幸せなんだろうって。でも」
阿倉は言葉を切った。口も目も閉じている。彼方はじっと、続きを待った。
「守られてばかりいるのも、居心地が悪いんだよ。あの子のそばにいると、私はいつまでも成長できない。私は自分を変えたかった。できればもう、あの子を頼らないで生きていたい。でも、イブちゃんは絶対にわたしを助けにくる。中学生の終わりの頃には、どうやったらイブちゃんから離れられるだろうって、いつしかそればかり考えるようになっていたんだ」
阿倉はそこまで言うと、部室の扉を振り向いた。真銅に聞かれるのを怖れたのかもしれないが、扉に動く気配はなかった。
「真銅が依頼をしてきたのは、お前のためだった」
彼方が言う。
「どうしてそこまでするのか、あいつは言わなかった。そんなことを疑問に思うことすらなかったのかもしれない。悪気のない相手の行いを退けたくて、お前は真銅にバレないように、真銅を避けた」
確認するように言い終える。阿倉は静かに頷く。それから、口元を緩め た。
「でもさ、鶇巣くん。君はイブちゃんのことが嫌い?」
阿倉からの質問に、彼方は若干思案した。
「まともに話したのは昨日が初めてだ。第一印 象は大して良くないが、忌避するほど悪くもない。強いて言えば普通だな」
「それなら、あの子を傷つける必要もないよね」
阿倉はもう、俯いていなかった。弧を描いた唇がゆっくりと開いていく。
「私の話を聞くためにあの子を遠ざけたのは、あの子を傷つけないためだよね。君は優しいんだ。それならさ、このまま何も言わないでおこうよ。そうすればあの子を、真銅をむやみに傷つけることはないんだから」
狭い部室で、阿倉の声は反響した。
「私だって、何も話さない。どうしてこんな事件になったのか、あの子は不思議がるだろうけど、きっと私が主張し続ければ納得するし」
「勘違いだな」
阿倉の主張に、彼方の声が差し込まれた。盛り上がりを削がれた阿倉は、彼方に向けて目を瞬かせた。
「私が? いったい何を?」
「ふたつある。ひとつはお前にとって大事なこと。もうひとつは僕にとって看過できないこと」
彼方が唐突に立ち上がり、自らの鞄を長机に置いた。
「僕としては後者だけを話せばそれで終わりだ。だが、僕だって非情ではない。僕を訪ねてきた真銅と、今初めて述懐してくれた阿倉。そして桑水流の三人のすれ違いに、気づいているのは僕だけだ。しかも、どやら忌々しいことに、そのすれ違いの原因は僕にあるようだ」
鞄を漁る音が止まる。ため息をついて、彼方は言った。
「全く、僕が他人のことを慮るなんてどうかしている。だが、致し方ない。 いいか。君が考え至ったほど、桑水流は非情ではない。不器用さに、偶然がかさなっただけだ」
言い終わると同時に、彼方は手を鞄からだした。握られているものを阿倉はしばらく見つめる。やや間を置いてから、息を飲む音が聞こえた。
「桑水流くんのスマートフォン?」
黒いメタリックなカバーを掛けた、シルバーフレームのスマートフォン。阿倉はその機種が、桑水流の手に握られているのを見たことがあった。プレゼントを渡した、その日のことだ。
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