【映画感想】ジョーカー:フォリ・ア・ドゥを観てきました

ジョーカーの新作が公開されたので、観てきました。

感想

ネタバレに最大限配慮して……。

今作はある種「救い」のある物語だな、と思いました。

エンタメ的な救いではありません。もっと宗教的な意味での「救い」です。

アーサーとジョーカー

前作では主人公のアーサー・フレックがいかにして悪の救世主ジョーカーとなったのかが描かれます。

今作は、その逆。ジョーカーがアーサーに戻る物語だと思うのです。

ただ、ジョーカーは罪を犯しました。そう簡単には元には戻れません。そこには「救い」神の赦しが必要だったのです。

ラストシーンでジョーカーは罪の告白をします。警察の捜査により暴かれるのではなく、自らの意志で告解したのです。私はそれによってジョーカーの罪は赦され、元のアーサーに戻ったのだな、と感じました。

もちろん罪の告白をした所で、法的な意味で許されるはずもありません。彼の罪はむしろ重くなります。ですが宗教的な意味では重要な行為なのです。

心優しいアーサー

アーサーは元々悪い人間ではありません。むしろ心優しい人間です。そんな彼を犯罪者ジョーカーにしてしまったのは、彼を笑いものにする周囲の人間に他なりません。

ジョーカーに殺された被害者も、全くの潔白ではありません。無論、それは殺人の理由にはなりません。それでも、アーサーを嘲笑っていたために報復されたというのは事実です。

事実、アーサーは小人症の友人ゲイリー・パドルズは殺しませんでした。

悪の救世主として

ジョーカーとなったアーサーは、ゴッサムシティの市民の鬱憤を晴らす悪の救世主として世界に求められるようになります。

しかし、それはアーサーではありません。市民の中に生まれた幻想、道化のジョーカーです。

アーサーは周囲に笑われるピエロでしたが、ジョーカーもまた悪のヒーローかのように崇められる偶像。別の意味でのピエロだったのです。

ジョーカーになる前はピエロを演じていたアーサーでしたが、ジョーカーになっても変わらずピエロを演じ続けていたのです。

アーサーはジョーカーとしてピエロを演じ続けるかの選択を迫られます。

アーサーが救われる物語として

今作を観て感想は色々あるのですが、アーサーが救われたような感じがしてそれがすごい印象深かったです。

ただそれは必ずしも即物的な豊かさではありません。

アーサーはジョーカーのままでいれば、おそらく即物的な豊かさを得ていたことでしょう。ジョーカーを崇める民衆に、ジョーカーに恋する美しい女性もいます。

その彼がゴッサムシティの悪のヒーロー・ジョーカーの道へ進むのか、元の心優しい道化・アーサーに戻るのか。彼にはその選択が必要でした。

無論、元の心優しい道化に戻れば、もはやジョーカーのファンは彼に見向きもしません。無名のピエロに逆戻り……いや、失望したジョーカーのファンに恨まれることすらあるでしょう。

それでも彼は罪を神の前に告白し、贖い、魂が救われる必要があったのだと思います。

メタな話として、映画の鑑賞者でさえ悪のヒーローの道に進んでほしい、と思ってさえいたと思います。その意味でゴッサムシティの市民やジョーカーのファンは受け手の代弁者でもあったのです。

アーサーの選択は鑑賞者のためではなくアーサー自身のためのものでした。鑑賞者に対してすらピエロでいることをやめたのです。映画は普通、受け手が望むものを見せる方向で描かれますから、これはすごいことです。

そういう意味で、ある種メリーバッドエンド的な感想がありました。

結末は客観的に見ても受け手目線で見ても、全然ハッピーではありません。それでも、アーサーにとっては一番幸せな結末だったのかもしれません。

最後には「アーサー」でいれたのですから。

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