紙粘土を豆腐だと言い張る漢気
こんにちは。今日は少し思ったことを書きたいと思います。
前回こんな記事を書きました。
紙粘土を豆腐だと言い張るというのは『ボボボーボ・ボーボボ』という漫画にある有名なシーンです(ネットミームを大真面目に解説するユーモア欠乏症患者)。
上記の記事ではちゃんと作業して完成させよう、と締めくくっていますが、一方で紙粘土を豆腐だと言い張る漢気も必要だと思っています。
何事も程度問題
紙粘土を豆腐だと言い張るのは極端な例ですが、じゃあどの程度作り込めばいいのかというのは判然としません。
私も2作+体験版1作、ゲームを出していますが、神クリエイターから見たら豆腐と五十歩百歩かもしれません。
こんなクオリティで完成と宣言していいのだろうか? ……そういう葛藤は常にあります。
というか、基本的に実力の向上を遥かに上回る速度で目は肥える一方です。そうなると、クオリティが気に入らないという葛藤は常に発生します。
周囲から見たら十分すぎるクオリティでもそうです。どうしても粗が見えてしまうためです。
とはいえどんなにクオリティが気に入らないとしても最終的には完成を宣言しなければならないわけで、最後は決断力……漢気の問題になってきます。
程度問題を 0 or 1 で考えるのをやめよう
常々思っていることなのですが、程度問題になるといきなり 0 or 1 で考える人がいます。むしろそういう人のほうが多いのではないでしょうか。
クオリティがアレでも完成と言う漢気は必要です。でも、クオリティを磨くのも同じくらい大事。それだけです。
要はバランスですね。
そのバランス感覚に美的センスとしか言いようのないものが光ります。人によっては、ここは作り込まなくてもいいな、という判断から作り込まない人もいます。それもバランス感覚であり美的センスです。
その美的センスに共感できるかできないかというのは別の話です。
自分の限界に挑もう
個人的にいいなと思う方法は、自分の限界に挑む意識で取り組むことです。
限界までやったとしたら、それが今の実力です。クオリティがどんなにアレでも、最後は漢気で受け入れて、完成を宣言して出しましょう。
「自分の限界はまだまだこんなものじゃない!」……そういう意識があると逃げ道が生まれてしまいます。
自分の本当の実力と向き合うのが怖いのです。
実際やってみて、クオリティの低さが受け入れられないと完璧主義に陥り、出せなくなります。
逆に雑にやるのも同じ心理です。限界を発揮して失敗するくらいなら、のらりくらりとやっていれば自分の本当の実力と向き合わずに済むのです。
限界に挑戦せずのらりくらりと生きていれば「自分はまだ本当の実力を発揮していないだけなんだ」という可能性、希望を残しておけるのです。
自分の限界に挑んで、なお玉砕する経験みたいなのは、きっと大事です。
スポーツマンシップみたいな話になってしまいましたが……。
私はそう思っています。