劣等星
年中無休24時間営業で朝昼晩のレイヤーをひとつずつ、ただ静謐に重ねるだけの人生においても、ある時突然、自分だけが惑星の軌道を外れたような感覚を覚えることがある。
集団生活で文字通り孤立したとき。浪人が決まったとき。就職活動で、これだけ祈られたらそろそろご利益があってもいいだろうというくらいの数のお祈りメールを貰い続けたとき。友人が相次いで結婚したとき。
懐かしさからふらりと顔を出した同窓会でただただ一方的に聴かされる、愛と成功と明日への希望に満ちた人生プレゼンテーションの数々。
学生の頃、COSMOSという合唱曲を合唱コンクールの度に全クラスで争奪し合ったのを覚えている。
だって歌詞が絶妙にズルい。優美なメロディーラインに乗せて、誰もがみな『星』なんだよ、と反抗期真っ只中の不安定なアイデンティティに直接語りかけてくるんだから。
深く考えずにただ日々をこなしているとこう思う。
僕たちが仮にみんな星だったとしても、世の中には恒星と惑星の2種類の理想形があって、そのどっちかにならなくてはいけないんだと。
なんならたくさんの惑星を従えた恒星になれるのが一番いいんだろうけど生まれもった才覚とか環境とかそういうのもだいぶ影響するのでまぁ難しい。
だから惑星にならなくてはと思う。みんなだいたい惑星になりやすいように育てられるし、軌道にしがみついて必死で努力するんだと思う。
そして度々、惑星になりきれぬ自分に絶望する。
絶望すると同時にはたと気づく。いつから惑星になりたいと思ったのか、というか本当になりたかったのか、その記憶が何光年もの彼方に失われてしまっていることに。
自分が、惑星を持たぬ恒星である可能性に。
地球からよく見える星だけに、あまりにも固執してはいないだろうか。
そりゃあ君から見て今の僕は、とてもじゃないけど明るいようには見えないだろう。
だからと言って僕が弱い光しか放てない証明にはならないのだ。僕たちはお互いに、余りにも、距離が遠すぎる。それだけなんだ。
言い訳に聞こえてしまうかな?
ところでplanetという言葉の語源は、なんとギリシャ語で「彷徨う」を指す言葉なんだそうだ。そしてご存知の通り、惑星というのは自分の力では輝くことができない。
あぁ、勿論、君だって星だ。誰かの恒星かもしれない。みんなが誰かの恒星だったらいいと思っている。
※いつもご講読下さりありがとうございます。筆者は天体が好きですが、元々あまり天文学的知識が足らないので、取材が足りず不適切な記述等あるかもしれません。寧ろあまり自信がありません。あくまでも一種の表現物の端くれとして楽しんでいただけると幸いです。よろしくお願いいたします。