憶えている
たとえば数年放ったらかしにしていたギターやキーボードを気まぐれに引っ張り出して、手元を見ずに数曲弾けてしまったり。
朝が来て夢から醒めた時に「音」や「気配」があったことを明確に覚えていたり。
思い出したってどうしようもないものばかり。精神が覚えていたいことと、脳機能的に覚えておかねばならないことには齟齬があるような気がする。
よかった記憶だけで満たした世界で幸せに暮らしちゃダメなのはなんでなんだろう。そういうのに限って回したはずのない蛇口からどんどん流れ出して行って、嫌な記憶やどうでもいい記憶は澱のように地味に水底に溜まり、しかも時折浮いてくる。
「なぁ、もう小説は書かないのか」
僕は酔っ払って気が大きくなったフリをして、とりたてて仲が良かった訳でもない彼にそう話しかけた。元文芸部というだけの薄い薄いつながり。
「やらないよ」
「おれにはいまの職場があればいい」
仁先生やDr.コトーと同じ免許を持っている彼は、生業に誇りを持っているようだった。
大多数の人間が恋愛や結婚や、子供がどうのという話ばっかりになりがちなアラサーの同窓会において、仕事の話、ましてや仕事のポジティブな話をする人間は笑っちゃうくらい稀有だ。
「面白かったんだから、オフの時間とかにまた書けばいいのに」
僕は当時、彼の推理小説のちょっとした愛読者だった。高校生の域を出ない自分の作品と比べてあまりにも完成されていて、内心嫉妬することも多々あったので表向きに絶賛することはなかったが、今思うともっと褒めればよかったのかもしれない。
まさか医学部に入った途端に一切の創作を止めてしまうとは思わなかったのだ。
「…そんなことを言っている暇があるのか?」
鋭い指摘に、思わず口を閉ざす。こちとら特に目標も使命もなく一人分の生活費を稼いでいる地方都市の平凡な一市民だ。全くもって仰せの通り。
「ごめんて」
しかし彼はきょとんと僕を見つめる。
「誓っていうが、俺はこの仕事で疲れを覚えたことは無い」
「マジで!?」
「…いや」
「体力勝負なのに、偉いな」
訝しげに虚空を見つめたあと、彼は向き直る。
「…お前さ、もしかして言うほど好きじゃなかったのか?」
「何を?」
「宮沢賢治」
どうして思い出せなかったんだろう。
「『生徒諸君に寄せる』…」
もうとっくに生徒なんかじゃないっての。なんていうつまらない反撃しか思いつかない。
彼の一連の発言はこの詩からの引用を含んでいたのだ。ちょっとマイナーなこの作品だからこそ、答えられるべきだった筈なのに。何も書かなくなった彼に対して何故「忘れてしまった」と決めつけていたんだろう。
大切なものを次々置き去りにしてきたのは僕の方じゃないか。
「そんなに宮沢賢治推してたっけ、俺」
「降霊術で憑依させたいとまで言ってたよ。あれは笑った」
いや、確かに好きだったし隣の市の図書館まで行ってかなり読みあさったけど別に全部網羅したわけではないし。さっきのも全然ピンと来なかったし、本当に面目ない…。
「もうすっかり忘れてた」
正直に打ち明けて伸びをしていたら「そういうこともあるよ」と彼は少し笑った。
少し嬉しかった。正直いうと、出席したところで誰も僕のことなんか覚えてないかもなって思ってた。
「お前があんまり熱く語るもんだから、ある日試しに詩集を買って読んでみたんだ。そしたらおれ、すごく賢治の考えに惹かれるようになって。今こんな仕事をしているのも、きっと誰かの為に生きた賢治の生き方に憧れたのが大きいと思ってて…」
いつかまた会う機会があれば、教えてくれてありがとうって言いたかったんだ。
じゃあおれはそろそろ帰るよ、と言って彼は席を立った。
「俺さ、いまも小説を書いているんだ」彼の話を半ば呆然と聞いていたが、勢いで口走っていた。「時々、全然趣味で、だけど」
彼はニッと笑う。
「誰かのヒントになるようなのを頼む。そういうの、案外向いてそうだし。」
どうだか…と言いかけたいつもの自分を黙らせ、まかせろ、と威勢よく指でグーサインを作る。
どうでもいいことなんかじゃなくて良かった、と記憶の澱が綻んだような気がした。