通訳者+コミュニケーションストラテジスト その2 ~通訳学校入学から卒業するまで~
通訳者になろうと決意した時にすでに通訳学校の存在を知っていたかどうかは忘れたが、通訳者の叔母さまを持つ友人から、「通訳者になるにはサイマルという通訳学校に行くとよい」と聞き、他を特に調べることもなくサイマルアカデミー(現在はなくなってしまった大阪校)に行くことにした。
3月に辞めるのに、夏頃に会社に対して辞める宣言をする。ちょこちょこ英語の勉強を再開し始めたものの、あまり身が入らず。会社を辞めるのと同時に当時付き合っていた今の夫と結婚することにしたので、2月いっぱいで辞めて、3月は残りの有給を使って独身最後の1人旅へ。友達に会いに韓国へ1週間、語学留学のためオーストラリアへ2週間行く。
帰って来てからサイマルの入学試験を受けると、結果はぼろぼろ、聞いたものを訳するというのはこんなに難しかったのか!と改めて難しさを実感する。会社も辞めて、独身一人旅も終えて、いざ勉強と思っていたのに、万が一入れなかったらどうしよう😰、と不安を覚える。その後、アカデミーの事務局から電話がかかってきて、「高瀬さん、とりあえず通訳準備科に入学できますが、このクラスでやっていくのはだいぶ大変かと思いますので頑張ってください。」と!!!
ということで、無事、学校へ通えることとなりました。
とはいえ、週4時間しか授業がないので、それ以外の時間を使っていかにして知識と実績を積み上げていくか。7月に結婚式、10月に新婚旅行の予定だったので、何かと準備に忙しいかとも思い、短い時間で英語の使った仕事はできないかと探していると、特許事務所での事務&時々英語翻訳サポートというアルバイトの募集を見つけた。週3回、1日4時間、大阪のど真ん中、心斎橋に通った。
結婚関連のイベントが終わり、サイマルの授業にも慣れてくると、もっと通訳の実践を積める仕事をしたいと思うようになる。ただ、求人情報を探しても”通訳経験3年要”と書かれているところがほとんどで、なかなか応募すらできない。実績がないから実績を積みたいのに、経験者しか受け付けない中どうやって実績をつくったらいいのか、というのを当時ずっと考えていた。いろんな派遣会社に登録して、派遣情報を日々チェックしていると、経験が3年なくてもよいというゲーム会社での募集を見つけた。早速応募して、顔合わせ(派遣法では面接と言ってはいけないらしい)へ。英語で自己紹介してください、と事前に言われていたので精一杯のアピール文章を作ってスピーチ。無事、就業開始となった。同社では、資料の翻訳、ローカライズ、バク修正のレポート翻訳、アメリカから来客があった際の簡単な通訳など、少しだけ経験を積むことができた。ゲーム会社は納期がシビアで、翻訳作業を終電まで対応しても終わらないなどよくあった。エンジニアの人たちはもっと大変で、会社に入って最初に覚えることは”寝床を作ること”と今ではブラック企業と言われそうな冗談が聞こえてきた。予算もシビアで、しばらく案件がないと分かると派遣社員は即刻契約終了。9ヶ月ほど働いてその会社を卒業することになった。(その後、同じ募集が投稿されているのを何度か見たので、必要になったら雇うというスタンスなのだと思う。)
無職になってしまったので、新たな仕事を探した。探していると、エージェントの派遣部門に勤めていた友達から、神戸の会社が通訳者を探していると紹介してくれた!ダイレクトマーケティングの会社で日本の本社は渋谷にあり、グローバルの本社はイギリスにあった。その外にも世界各国に拠点があり、神戸では新しい事業が立ち上がったとのことだった。
詳しい仕事内容は、インド系イギリス人のトニー(本名は別にあるものの、覚えやすいということでニックネームを使っていた。)のプライベートアシスタント兼通訳。通訳者として実績があまりないのに雇っていただけるとは!!!二つ返事で応募した。
顔合わせを終えて、翌週から業務開始となった。ドキドキしながら職場に向かうと、チームのメンバーへの挨拶もほとんどないままに、朝礼を通訳せよとのこと😲初日からトニーの洗礼を受けた😅
(左がトニー、右は渋谷にいたもう1人の社長。)
入社してから聞いた話だが、私の前に通訳さんは2・3人いたそうだが、トニーのハチャメチャぶりにみんなすぐに辞めていったとのこと。私は、通訳者としての実績をつけたかったし、会議室にずっと座って通訳する、というより、トニーといろんなところに行って、トニーのハチャメチャぶりを通訳するのが楽しかった(と思う。当時は愚痴っていたかもしれないが。)
ハチャメチャ例⇒神戸で大きなMTをして、翌日は東京という時に、私は行く予定じゃなかったのに、突然、「えりさんも東京に来て」と出張になったり、口癖の「2分待って」は永遠だったり、iPhoneやiPadを購入すると、必ず1回はクレームをつけて新しい機種に交換してもらったり、東日本大震災の頃にトニーの下で働いていたが、仙台にも拠点があり、居ても立ってもいられなくなってヘリを飛ばすと言い出したり。(インドではお金があれば何でもできるのに、日本ではお金があっても何もできないと悔しがっていた。)とにかく豪快で繊細で刺激的だった。トニーから発せられる言葉にわくわくしながら、日本人メンバーに伝えることができたのは通訳者としての原点となったかもしれない。
当時は今ほどオンラインが進んでいなかったが、ソフトバンクの2拠点以上通話(サービス名は忘れた)サービスを使って、トニー、メンバー、私が別々のところにいながら通訳を介したミーティングをすることもあった。なので、電車のホームで突然3拠点会議が始まることも。いろんな意味で鍛えらた😆
入社後初めての夏には、イギリスへ研修へ行くマネージャー2人の通訳者としてイギリスへ。もしかしたら、トニーからのイギリス旅行のプレゼントだったのかも。ただ、旅程は一番安いチケットで行けとの指示だったので、往路は大阪🛫ドバイ🛫ヒースロー🛫マンチェスターと乗り継ぎ。今となってはよい思い出ですが、ドバイでマンチェスター行きの直行便を見た時は😿でした。笑
(👇出張中の通訳シーンの1つ、ものすごいスコットランド訛りの方で大変だった記憶が💦)
そんな刺激的な現場であったが、通訳する内容はモチベーションに関する話が大半を占めていたので、もう少し、技術的な内容を理解してアウトプットできる通訳者になりたいと思うようになっていった。
ちょうどサイマルも卒業が近づき、退社の意向を伝えた。トニーはすごく悲しんでいたようだけれど、そして、私も最後はちょっとだけ「なんで辞めることにしたんやろー。」と寂しくなったこともあったけど、そんな時は、当時よく聞いていたSuperflyの楽曲の中にでてくる、Don't look backというフレーズを思い出して、前に進むことにした。
本当は、通訳学校入学から現在までを書こうと思っていたのだが、振り返れば、いろいろと思い出して書いてしまった。
このnoteを読んで、少しでもなんか元気出た!と思ってもらえると嬉しいです。次回は、通訳学校卒業~保険会社に転職するまでについて書いてみたいと思います。
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