さびしくならないサラダを探して<第一話>
屋上植物園のようになった<天神屋デパート>の屋上には、半円型の舞台があって、その前にはベンチがいくつか置かれている。それは3列並んでいて背もたれに描かれたペコちゃんマークはすでに錆びていて、すごく末枯れた風情を醸し出していた。
雨ざらしのせいか、さびさびでペコちゃんはもうペコ姐さんって感じで、傷だらけの舌をたらりと垂らしたまま、ずっと屋上のベンチの背もたれにいた。
わたしはここに居るペコちゃんのことが嫌いになれない。ここで年老いていくペコちゃんのことが、まるでじぶんのようだとも思う。
そしてもう撤去しましょうよと、<天神屋デパート>の誰かが何もいわないことをいつまでも祈ってる。
ベンチにはランチを食べてる人たちがちらほらいて。
たいていおひとり様か、ふたり組だ。
小さい子供とお母さんらしき人がお弁当を広げていた。
子供が見上げてママって呼んだ。
ただ呼びたかっただけみたいな空気感をその子は醸し出してママと呼んだ。
小さな手のひらをご飯粒でいっぱいにして、唇の端についたそれをお母さんがつまんで食べた。
あれがお母さんというものなのかと思うとわたしは、きゅっと胸が詰まる。
でもなぜかこう思う。
子供の美味しそうな笑顔がそこにあることに無条件ですくわれてもいた。掬うなのか救うなのかわからないけど、すくわれた。あの子供とわたしはきっと同類だったはずだ。あれはどうしたって否めない。美味しいものは美味しいのだ。好きなものは好き。嫌いなものは嫌い。
生まれてまだ数年しか経っていない彼にもその味がわかる。それって真理なんだと、わたしは思ってみる。
「お母さんっておにぎりの匂いがするぅ」って彼が、ふいに詩のようなことをつぶやく。まるでTwitterの誰かの投稿のような言葉だった。
そしてつぶやきながら、ちょっと食べるの飽きたみたいな風情で彼女の胸元に頬をこすりつける。
ああ。よくわからないけれど。その甘えた声をききながら、家族の郷愁みたいなものをわたしはこういう景色から学んでいる気がする。記憶の中にはないから外付けするしかなかった。
デパートの社員達は屋上には今日はあまり見当たらない。群れて食べたい者たちはたぶんどこかのお店に足を延ばしているんだろう。そう、近所に本場インドのカレー屋さんができたせいだ。ワンコインでサラダとデザートまでついているらしい。
この辺りはレトロ系のお店なら所せましと商店街にひしめき合っている。
お昼時の雑踏をビルの屋上から見るとみんな右往左往していて、面白い。
創業50年程の老舗もたくさんある。
「お布団直します」という札がかかっているお店もあるし。「シンガーミシンあります」と店先に段ボールにマジックで文字が書かれた札がぶらさがっているお店もある。シンガーミシンがミシンの商品名だと小さい頃知った。
そこにあるのは、なにかしらみんなが生業にしている人たちのお店がひしめきあっていることだった。
ずっと昔、20年ほど前にもここによく来ていた。このデパートと近くの湘花アーケードの飲食店街は、わたしと双子の片割れ、弟の七生にとっては半ば「庭」に近かった。
アーケード通りのカレーショップ「カリビアン」は、わたしたちが長い間朝ごはんをお世話になった場所。
学校に行く前には、ランドセルを背負ってここに立ち寄る。朝からカレートーストをふたりぶん頼んで、すこしだまになった顆粒の残るポタージュをぐいぐい飲んで、紅茶を流し込んだ後、凍ったライチをつるんと食べる。
巷の家庭の朝ごはん的なものとは縁がなかった。その代わりに「カリビアン」の藤沢おじさんとおばさん夫婦によくしてもらった。
学校帰りには、フルーツパーラーの「ぱいなっぷりん」に寄って、おやつをごちそうになったりもした。
弟の七生がおばちゃんもういっこってねだると、四葉さんにおばちゃんが叱られるから、その一個はまたのときにとっておくねっていって七生の頭を撫でる。
四葉さんとはわたしたちがずっとお世話になってきた天神屋デパートの屋上でフラワーショップを経営している斉藤四葉さんのことだった。藤沢のおばさんはわたしには軽くウィンクしてみせて肩をあげて微笑んだ。食べ終わるとデパートまでふたりで競争した。入口の自動ドアまでダッシュしてたら、仏壇屋さんの「永遠堂」の上牧さんが、おぉ今帰りかい? って声かけてくれていっぱい遊んできなって七生の頭をくしゃくしゃになるまで撫でた。同じ双子なのにいつも撫でてもらうのは七生だった。
弟は照れたような顔をしておじさんに、会釈のなりそこないみたいな真似をして走ってゆく。
屋上から俯瞰していると懐かしさが波のように畳みかけてくる。まるで現代だとは思えないミニチュアで出来上がったような色とりどりの街並みが地上のそこに現われていた。
デパートの屋上は案外、穴場だと思う。時にひとりになりたいひと。雑踏から逃れたい人。わちゃわちゃしたくない人たちが集まりたくなる、安全圏のようなところがある。わたし渋谷栞もまぎれもなくそのひとりだった。
誰にもその自由を邪魔してこないオアシスこそ、こういう今のような世知辛い時代には必要だと、おばあさんみたいなことをわたしは小さい頃からずっと思っている。
この年老いた<天神屋デパート>がたとえば年若いひとりの大きな背の高い人だとすると。屋上は風にそよぐほどの緑色のヘアスタイルを備えた頭に相当する。そして喉元あたりが物産展を催す7階もしくは8階で。胸元あたりは紳士売り場かもしれない。表には見えない背中は関係者通用口に相当するんじゃないかと。これは誰にも言ったことのないわたしだけの持論だ。
バ先はそういう意味で換算すると、この古いデパートの足元にあたる。いや足元よりももっと奥深い場所、地面の中かもしれない。
Google検索から逃れられるそんな場所であってほしい。
<天神屋デパート>のデパ地下にあるデリカショップ<べジルド>にわたしはバイトとして勤務してまだ一年程の新米だ。
午前中の仕事が終わると、お昼休みは社員用の貨物兼用エレベーターで屋上階を押して、必ずフラワーショップ<グリーンサム>に逃げ込む。
窓のない地下に数時間もいると、思い切り空の下で深呼吸したくなる。
ほの近くに海があるせいで、潮風はすぐに鼻腔をくすぐる。
観葉植物の専門店<グリーンサム>に訪れると嘘みたいに呼吸が整う。整うとかなんでもかんでもつかうの、バカみたいだからやめろって恋人の透が言っていたのに言ってみる。
どこかでほんとうにバカって声が聞こえたら、それはもう祝祭といえそうだと空を仰ぐ。
海街特有のまぶしい太陽を薄目で浴びていると、ふいに「太陽がいっぱい」という映画についてデパ地下の誰かが話していたことを思い出す。その時どうして幼稚園生が言ったみたいな言葉なのに、あのタイトルは秀逸なのかって力説している人が居た。
あのラストがな、タイトルにつながるんだよ、「太陽がいっぱい」って。そういうループの構造しているからよくお前らも見とけ。ラストシーン忘れんな。
ちなみにだけどな。タイトルがループするのは、ほれあの「明日に向かって撃て」だってそうだよ。瀕死でさ数分後の命すら危ういのにまして明日なんかないことわかってんのにさ、男ってやつは明日に向かって撃てっていっつも思ってるんだよ。悲しい生き物だよな。
わたしは休憩時にそれをひっそり聞きながら平成かよ!とか言いたくなりつつおまけに昭和かよ!もツッコミの種類としては大好きなので、心の中で言ったりするけど。そのおじさんの意見はなかなか面白そうだなって思ってた。でもその人達の輪には入れなくて、今となってはそれを誰が言っていたのも忘れてしまった。
弟の七生ならすぐさまその話の真ん中に入っていって仲良くなってるに違いない。七生ってそういうやつだった。今もそうなのかは知らない。5年前からもう会ってない。
昼休みになるとこの屋上でやっている儀式というか、まあ儀式としかいえない。あえて言い換えるならわたしだけのルーティンがあった。
以前ここの屋上を訪れていたお客さんのコピペにすぎないのだけど。おんなじことをしている。しているというかしてしまう。
その時、わたしは前から二列目のベンチの真ん中あたりに座っていた。前にいるその会社員らしき男の人は、スーツの横にカバンを置くと椅子の金属がこすり合う音を静かにさせて、おもむろに座った。
ゴールデンウイークの始まる少し前の空は、澄み切っていて遠くには飛行機雲がうっすらと掃いたように見えた。
深呼吸してみる。鼻腔にその日にしか感じられない潮の香りが紛れ込んできて、すこしだけ切なくなる。海の香りには微量に「誰か」とか「あの日」とかの悲しくなる成分が含まれてるに違いない。
その時、わたしの耳にびりびりという乾いた音が聞こえてきた。
何かをちぎっている音だった。たぶん薄っぺらい紙。しゃりしゃりいうようなそんな紙。しきりに破り続けているその人は肩を震わせてすすり泣きながら無心にちぎっていて、それはまるで修行のようだった。
後ろの席から見ていたわたしはその背中に何か声をかければいいのかどうか戸惑っていた。
じりじり、びりびり。
その音に耳がひきずられてゆく。
その刹那、屋上に潮をまとった風が吹いた。
風の音の中にその男の人の「あっ」っていう切羽詰まった声が混じっているのが聞こえた。彼がちぎっていた紙片が風に飛ばされていくのを後ろの席でわたしはいくつか見届けてしまった。
ストッキングの上を風が撫でたと思ったせつな。コンクリートのがさがさした地面にかろうじて落ちた紙片がみえた。三枚の紙きれがわたしの足元で踊っていた。見ちゃったから仕方ないなって思って、しゃがんで拾って手のひらに乗せてやわらかく手をむすんで確保した。ちらっと見た時、緑色の枠が三角形の端っこについていた。ぎざぎざの辺を持った細長い切れ端には漢字の<婚>の文字。それはおんなへんが欠けたままになっていた。
これ拾ったけどどうしようと思っていたらその男の人がふりかえって、すみません飛ばしちゃいましたって声がかかった。
泣いていた背中とは裏腹に意外と声が高くて拍子抜けした。
ですね、みたいですねっておかしな答え方をして。拾えるだけの紙片をふたりで拾った。彼の膝の上にはばらばらになった用紙が散らばっていた。三枚の紙片を彼の掌に置いた。そのままだとまた風に飛ばされそうなので、蠟燭の灯りを包むようなそんな仕草で右手で囲いを作ってそっと置いた。そこまでする必要があったのかどうかわからなかったけど、わたしはその男の人が大事そうにそれをちぎっている感じがしたので、そんなふうに渡してあげたくなっていたのだ。
彼はほんとうにすまなさそうに眉間にしわを寄せていた。ふいにそのしわまでも伸ばしてあげたいような気分になっていた。こんなわたしだって、たまにはマリア様的気分が舞い降りてくる心持になる日もあるのだ。
そのちぎれた紙は彼の叶わなかった婚姻届けらしかった。その先の理由をうっかりわたしに話しそうになるのを突然辞めて、ふたたび謝るとその男の人は、グリーンショップに駆け込んだ。
セロテープとかお借りできますかすみませんとさらにあやまり、そのばらばらのものを、てかてかのセロテープでつなぎながら、泣いていた。そして、そそくさと屋上を後にした。
ずどんと来た。
なかなかひとりの男の人の悲しみがむき出しになった現実なんてドラマ以外では会えるものじゃない。みんな抱えてる、なにかを大事に抱えてる。それは手放したいほどの悲しみであっても胸のうちに抱え込んでいるものなのに。彼は思いがけずに悲しみが身体の外へと零れ落ちていた。そしてそれをわたしは目撃してしまった。言うまでもなくその日は重めのヘビー目のひとときだった。
そしてそんな人たちがもしかしたら、やるせない思いを自ら掬いたくてこの古ぼけたデパートの屋上まであがってくるんじゃないかと。変な仮説をたてて頭のなかで泳がせた。
それを見かけてからなんとなく、わたしは紙片をちぎるという行為に魅せられていた。ちぎった後は、彼の受け売りでなぜかセロテープでくっつける。ばらばらのものは、またいつかひとつになれるというおまじないのようでおかしいのだけど。それをやっているとこころがすとんと落ち着いた。
今日も晴れている。そして紙をちぎる。今日はお財布の中になにもなくて、家の近くのコンビニのレシートしかなかった。
ユーミンの「悲しいほどお天気」という歌詞をバ先のおばさまに教えてもらったけど。ほんとうにお天気は悲しいのだ。名言だ。なんならずっと雨でもいいとさえ思ってしまう。
さびしくならないサラダを探して<第一話>|ゼロの紙/絵本『どこかでだれかが』発売中 (note.com)
さびしくならないサラダを探して<第二話>|ゼロの紙/絵本『どこかでだれかが』発売中 (note.com)
さびしくならないサラダを探して<第三話>|ゼロの紙/絵本『どこかでだれかが』発売中 (note.com)
さびしくならないサラダを探して<第四話>|ゼロの紙/絵本『どこかでだれかが』発売中 (note.com)
さびしくならないサラダを探して<第五話>|ゼロの紙/絵本『どこかでだれかが』発売中 (note.com)
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さびしくならないサラダを探して<第七話>|ゼロの紙/絵本『どこかでだれかが』発売中 (note.com)
さびしくならないサラダを探して<第八話>|ゼロの紙/絵本『どこかでだれかが』発売中 (note.com)
さびしくならないサラダを探して<第九話>|ゼロの紙/絵本『どこかでだれかが』発売中 (note.com)
さびしくならないサラダを探して<第十話>|ゼロの紙/絵本『どこかでだれかが』発売中 (note.com)
さびしくならないサラダを探して<第十一話>|ゼロの紙/絵本『どこかでだれかが』発売中 (note.com)
さびしくならないサラダを探して<第十二話>|ゼロの紙/絵本『どこかでだれかが』発売中 (note.com)
さびしくならないサラダを探して<第十三話>|ゼロの紙/絵本『どこかでだれかが』発売中 (note.com)
さびしくならないサラダを探して<第十四話>|ゼロの紙/絵本『どこかでだれかが』発売中 (note.com)