
つみのかけら
それを聞いてしまったらそれがそいういうことなのか、なんだか気になって
しかたなくなるかもしれないって、いちまつのそわそわを感じて落ち着かなくなるはずなのに。
耳子は、ひとのなやみをきく仕事をしていた。
そりゃ耳子だって経験はある。
なんでも打ち明けたほうがいいよって言われて、うっかり打ち明けてしまってこともあるけれど。
あぁ、奥の奥のほうにしまってあったものがどこからだあふれだしてしまって、それはもう逝ってしまったんだなっていう気持ちにはげしく駆られたことがあった。
ぜんぶもっていかれたような感じ。
その後味のはかなさを味わってから、耳子は聞くひとになった。
ある日、女の人が訪ねてきて言った。
「夫は身体の自由を奪われているから、意識もふたしかな夫にずっと抱いていた秘密をうちあけてみたの」
太い小指になぜかピンキーリングだけをした、グレーのスーツを着た初老の
おばさまだった。
「耳元で私が、ざんげしてしているとねあの人、指のあちこちをぴくって動かすの。ほんとうはね、ちゃんと聞いてるかもしれないって思うようになったの。それでもね、打ち明ける時のあの開放感ったらなかったのよ」
じぶんの身体の器のなかを、ひみつや罪でひたひたにすることは、限界があるものなんだろう。抱えきれないなにかをぽろぽろっとこぼしてしまった時、正直そこには、たしかな体積をたずさえていたのかもしれないって思うぐらい、そのものじたいの容積が若干軽くなったような気がするから。
告げるっていう行為はなにか想いを放つと、それが空気に触れたせつな多少なりの重さが瞬間的に受け止めてくれる、誰かのもとに移動してしまうものなのかもしれないなって思う。
その重さを引き受ける役割を、耳子は担っていることになるのだけれど。
もういまはいない父親みたいな人に<かなしみの石>という石が異国のどこかにはあるんだよって、教えてもらったことがあった。
その石におかした罪を告白して、その石が砕け散った時、そのひとはその罪から救われるんだとか。
彼が死んでゆく前に、耳子はほんとうか嘘なのかよくわからないけれど、<サッドストーン>を形見分けのようにもらった。
今も仕事のときは、その石をクライアントとじぶんの前のテーブルに置いておく。
数知れない人の話を聞いてきたけれど。まだその石は砕け散ったことはない。
耳子は8時35分のF駅行きの153系統のバスに乗り、タラップを2段上がって、左側の4番目の手すりに右手を添えて、肩から背中は一本のバーにもたれさせて。
表紙の外れた物語の22ページを読んでいる。
彼女は20歳で。100年以上前のロシア製の珊瑚のブレスをしている。
それは彼女の曾祖母のもので、ひいおばあちゃんの切ない物語を、その腕輪と共に譲り受けてしまった「わたし」が主人公らしかった。
「わたし」には、じぶんのことに興味のもてない10歳年上の恋人がいる。
彼は、週に2度セラピストのところに通っている。
いちはやく抜け出して彼と先へと進みたい「わたし」は、「わたし」が抱える曾祖母をとりまく物語を恋人に語りたがっている。
恋人が通うセラピストのもとへとひとり足を運んだ「わたし」は話したかった言葉を見失ったまま、焦燥し沸点に達してしまう。そして彼女はその場で腕輪の糸を引っ張って675個のちいさな珊瑚の球をセラピストルームの床にばらまいてしまう。
そんな物語に現を抜かしながら耳子はF駅に到着した。オフィスの部屋に辿りつくと、今日のクライアントのことを考える。
冷やかし半分に訊ねるひともいて、あしらうのも面倒なこともあるけれど。今日の彼はほんとうにかなしい生い立ちをもったひとだったから、じっくりと耳を傾けたいと、静かな気持ちになっていた。
彼がやってくるまえに、あのバスの中でよんだ見知らぬ異国の誰かが書いた物語のせいなのか、ふいに思い立つて、デスクの中の引き出しから石を取り出した。
<サッドストーン>はこげ茶色の卵のような形をしていた。
耳子はこれをみるたびに煮卵を思い出してしまう。
父親がわりだった人といっしょにいった屋台のおでん屋さんで、コートに身を包んだまま、あの人の声を聞いていたことを思い出す。
あの人って耳子が思う時、すこしだけ耳子のなかに罪悪感が芽生える。
そして最後の彼の声を思い出す。
「今日の星はいくつ出てる?」
彼がとぎれとぎれの声をふりしぼって耳子に聞いた。
「・・・じゅうなな じゅうはち じゅうく にじゅう」
「ふーん、そうなんだ」
耳子はつい2年前のことを思い出して、ひとり<サッドストーン>に打ち明けた。
さいごまでその石に打ち明けられなかったふたりの罪ともうひとつ。
あの日のあの人との最後の夜。
窓の外を見上げて、星がひとつもでていなかったことも添えて、石につげた。告げてしまった。
手のひらのなかの<サッドストーン>はゆるやかに、あたたまってゆくのが解った。
さいごまでたどりつけるか不安だったけれど、話し終えて、耳子は立ち上がる。
キッチンでポットの中のコーヒーをマグカップに注いでいた。
そのとき。
耳子のうしろのほうで、なにかが弾け落ちる音がした。
ふりむくと卵型の<サッドストーン>が、ばらばらにリノリウムの床に砕け散っていた。
それはまるで、罪のかけらのようにぎざぎざで。
耳子は拾い上げる。かけらをなにげなく数えた19個だった。
あの日の星と同じだったらよかったのにと思いながら。
さいごのひとつをつまみあげようとしたときに、耳子は欠片に触れてけがをした。
うっすら血が滲んでゆくのを、耳子はただしずかにみていた。
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