見出し画像

夜の善光寺の素晴らしきこと

2024.3.10
夜に長野駅から三〇分ほど歩いて善光寺へ詣でた。感動が実体を失いつつあって急いで書き留めたものを載せる。



  仁王像は猛々しく太い四肢から生えた指先の反りがなまめかしく、たおやかに揺蕩う裾の辺りの衣擦れが聴こえる。その両目はしかと私の目の奥を見据えた。この指が私の深奥をえぐる夢想をして火照った身体を夜風が冷やした。

  門を過ぎると右手に六地蔵が妖しく鎮座している。照らされて青黒く光る肌は、長野の夜の冷え込んだ空気の源ではないかと思うほどの冷たさを周囲に放っている。その肌と煤けた赤い前掛けが調和を示し妖しげである。黒闇の中にふっと浮かび上がる六つの頭と後光の環は自分が違う世界に来てしまったことを思わせた。六人目の地蔵は嬰児を抱えながら右目から涙を流していた。この地蔵たちは時を超えてどれほどの人間を救ってきただろうか。その瞬間私は確かに、彼らに救われた一人であった。そのすぐ隣には濡れ仏が座していた。彼の慈愛と諦念を湛えた眼差しはどこか遠くに向けられ、彼が衆生の身代わりであることを物語っていた。

  満を持して石畳を本堂の方へ進んでいくと信じられないほど大きな門が周囲のあらゆる雑音を吸い込んだような静寂を放ち佇んでいる。あまりに大きく美しくひとつの綻びもないその門は、白馬村で見た白雪を戴く巨山や瞬く星屑を散りばめられ閃く東尋坊の海と同じように永遠を思わせる崇高な存在であった。気圧されながらも快い安らぎを覚えたのは初めてだった。この門の向こう側は別世界であると思った。異常なまでの迫力に呑まれて足がすくみ、うまく歩けなかった。


  門を抜けて静かに歩いてゆくと本堂が現れた。本堂はほとんど黒に近い群青の空を戴いて、淑やかな光を威風堂々放っていた。端然と佇むお堂の存在感は明瞭であった。しかしそれでいて夜闇に溶け込みその稜角を失っているかのようでもあった。この刹那私の前に現れた善光寺は仮の姿に過ぎず、はるかに大きな善光寺がこの地球を囲い込んでいると思った。


  半ば放心していたため詣でたことはあまり覚えていない。ただ私は決して振り返らなかった。そうすることで善光寺が私に与えた心象を永遠のものにすることができると信じたからだった。目に光や色彩を見、耳に静寂の音を聴き、手に取るような実体を伴った感動はもはや時が奪い去ってしまったが、あの瞬間生まれた快い畏怖は未だ止まずに私の中に渦巻いている。

いいなと思ったら応援しよう!