非常時の脳の動きって凄いなぁと思った話(痛い系:閲覧注意)
その時。
目に映る光景が滑らかに移動していくのを感じながら、コンマ何秒後かの自分の姿が見えてた気がします。
同時に、無数の選択肢も。
低スペックな脳でも、演算能力が一瞬で高速化されることがあるんだなと、妙に納得してしまいました。
それは、事態を理解した瞬間から、物理的に視線が30センチ下がるまでのほんの僅かな時間の中での出来事です。
さらに、その次の瞬間には、無数にあったはずの選択肢が消えたことも脳は理解し、そのうえで起きた出来事を受け入れるように情報が伝達されていたのだろうと思います。
思考と記憶
時の流れが目に映っているのかのような錯覚と、徐々に下がる視界の変化を妙に冷静な気持ちで事態を受け止めた後、最初に浮かんだのは自分に対する恨み節。
『選択をミスった!』という自責の念。
続いて、更に50センチ沈むまでの間、『この後どうなる?最悪の結果かな?免れるのかな?』なんて思ってた気がします。
まぁ最悪の結果でしたけどね。
視点が限りなくゼロメートル地点に近づいた時。
耳には、聞きなれない音が届き、その深響を伴う振動が、自分の体から発せられたものだと解釈したのも、超低速で進む時間の中でのことでした。
沈み続ける自分の視界に右足が映ると、先ほどの音と振動の理由が頭に浮かびます。
それでも尚、もしかしたらと思いながら、体は次の衝撃に備えていました。
あらあら。。
数秒後、まるで氷の上に投げ出されたかのように腹ばいになった姿勢から、ダメ元で立ち上がろうとしても、うまく力が入りません。
仕方なく、無様な動きで手すりにしがみつき、ほぼ腕力だけで体を支えながら足元に目を向けると、現実とご対面です。
確実に折れてるじゃん。
もしかしたら、痛いだけでそんなに大したことないかも、なんて自分に都合の良い妄想をしていたのも束の間。
スケートシューズを履いた2号の足は、正面を指示する脳の命令に従わず、拗ねた子どものように、つま先だけが明後日の方向を向いていました。
自力で帰ることを早々に諦め、我が子を探して係員を呼んでもらい、車椅子で医務室に直行しました。
恥ずかしい姿で運ばれる最中、2号が考えていたこと。
『一瞬の出来事だったのに、色んなことが頭に浮かぶものなのね』なんてこと。
自分の状況を理解していないとしか思えません。
応急処置で何とかなりません?
その後、受け入れ先が見つからないまま約4時間。
やっと対応して頂いた病院で、複数の検査を受けた2号は処置室で外科の先生に相談させて頂きました。
『とりあえず、今日は応急処置だけで何とかならないっすかね?』
軽口を叩く2号に対して、医師免許を持っているだけのことはあると感じさせる難しい表情で、先生は優しく説明してくださった。
『帰れる訳ないでしょ?3カ所折れて、靭帯だって切れてるかも知れないのに。骨折でも重度の部類です!』
あら残念。
石膏で固めてお終いでしょ位に思っていた阿保な2号。
脱臼骨折とじん帯損傷でそのまま入院、手術を受ける事になったのです。
自分の事だけじゃないんだよね
あれから1年近くが経ちました。
現在もやや可動域に制限はあるものの、日常生活には困らない程度に回復しています。しかし、入院時のことは今でも時々思い出します。
長期入院が初めてだった2号。
最初に頭に浮かんだのは仕事のことで、診察の合間に関係者に連絡しながらバタバタ。
病室に通され、落ち着いてから浮かんだのは子供の顔。
受け入れ先が決まるまでは割と冷静だったのに、病院が決まったとたん泣いてたな。『中学生にもなって(笑)』とからかっても、ベソかいてた顔は今でも時々思い出します。
それから真剣に悩んだのが実家の事。
ばあばの認知症が進みだした頃だったので、畑仕事と慣れない家事でじーじが倒れなきゃいいなと不安でした。
ばあばは、めっちゃ心配してくれたけど、使い慣れないスマホで2号に電話を掛けてきて、じーじに怒られているのが聞こえて来たので申し訳ない気持ちになりました。
そして嫁。
骨折時、救急車の対応が出来ず、走り慣れない高速を使って半べそかきながら、2号を自宅付近まで運んでくれた事。
予約しても10分しか面会時間のとれない病院だったので、入院中は手術前に一度面会しただけですが、着替えや差し入れの対応で何度も通ってくれ、迷惑を掛けっぱなしだったかな。
2号の代わりに実家の様子を見に行ってくれたりと、一番苦労を掛けたかも。
いい夫婦でいられているかどうかは、2号ひとりの気持ちだけではわかりませんが、いつもありがとうございます。
おしまい