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我思うゆえにだけで本当にいいんでしょうか

私の学んだ認識論というのは
人が論理を組み立てる前のある種
無意識的なところが
どう構成されていくのかという内容なのですが

世間には論理以前の部分はないという立場これを

無神論もしくは唯物論

西洋哲学はキリスト教の神学に影響を受けているため理性主義はある種神についてわからないという無神論の立場と神より違うものがあるという唯物論の立場と表現せざる負えないところがある。唯一神の概念がない日本ではなぜここで神がでてくるのかわからないかもしれないが哲学の理性論は神に対するアンチテーゼでもあるのでそこは了解してもらいたい                         

ヲタメモ

言っていますがその立場が強いので
そんな無意識に構成されるのは

オカルトだと言われたり

これは我思う故に我ありという立場の
哲学的な背景からきているものなんですが

我思う故に我ありという名言を残したデカルト 近代哲学の父とも言われている

それが絶対的に正しいわけでもなく
人が意識するより以前にあるものもある

実際のところデカルトは哲学を我思う故に我ありから始めた方がいいだろうとある種軽い形で言っており最終的にそれでも神の存在は証明されると実は神の存在を証明しようとしていた。結論として哲学が我思う故に我ありなのだと決めつけたわけではない。勿論そんなことをしたらイデア論を説いたソクラテスの言い分が通らなくなるので本来ならこの立場はある種局限された状況下で使われるべきものであるのだと彼はきっと感じていてつまり世間一般に神を理解できない人に向けてわかりやすい導入口として提示したものだと思われる

ヲタメモ


理想だとかあと時間と宇宙とかもそうなんですが

確かに理性論的に我思うと思ったときに存在が
確定されるので人が作り出しているともいえなくはない
我思う故にあるのも事実なんですが

そこででてくるのが不可知論で

結局人は全てを把握できない未完全な状態にあって我思うことにも
限界があるから我思う故に我ありといいながら不可知論的になり
そして最終的には虚無主義に陥いったりある種の偶像や固定概念が
究極の原因だとすることになりがち

これらが極端な状態であるのは明らかですから
実際のところ我思うゆえに我ありもただしいですが
それ以前に何かあるアプリオリも
実際のところ5分5分に考えないといけないのです

アプリオリがあることで不可知論からの虚無主義的なものを
防ぐ道もあるわけです

デカルトと違いアプリオリを説いたカント 

カントの方がなぜか貴族風で美形なんですがデカルトは庶民派のように思えます まあ見た目で判断したらなんたらハラスメントになるのかな

カントは時間という存在を人は理性的意識の中でその事態を見ることはできないというよりこの物質世界で時間というものがそのもので存在もしていない人が意識して初めてそこに時間があるということがわかると

そんなことを書いているのですつまり時間は人の意識以前にある何かということでそれらをアプリオリ(認識以前のという意味です)と名付けました

まあわかりづらいのでデカルトの理性主義の方が近代は選択されがちですが

ヲタメモ

だからソクラテスは少しだけ見えるイデアの光といったわけです

現時点では不可知論的な状態で人はありますが成長したりある種覚醒したりすれば違う認識が生まれ違った我思う故にがでてくる

その認識の変更などを世間一般ではあまり意識していないのです

なのでアプリオリ的な要素を含めた認識から
ニュースという情報を読み解くなんてことも
面白いかと思ってやっていこうと思いました


まあ続くかどうかわからないけれど

ただ最近そういう認識の更新を潜在意識の変更といっていたりするスピリチュアルな立場もあるようですが実はよくよく考えればそれも我思うゆえにだけの範囲での更新なんですが

ヲタメモ


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